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周波数を合わせて

Lemonade #14「You're The Best」

前編

 日の落ちるのが早い。時計の針は夕方でも、街は夜を迎えようとしていた。ぽつぽつと街灯がともり、繁華街のイルミネーションやネオンサインはいっそう煌びやかに輝く。
「あっ、あの人たちって」
「ほら、……犯罪者を使ってるって噂のやつよ。セントラルパークを助けた人達」
「それでもきょう犯人を取り逃がしたんだろ? やっぱり信用していいのかね」
 先ほどのニュースの直後、NAPDのジャケットが目について思い出したのだろう。街を行きかう市民がこちらを見ている。興奮気味に端末のカメラを向けている女の子、胡散臭そうに見やるスーツの男性。
 視線を浴びながら、ヴァニタスとランディー・パーカーはタイムズスクエアを出て中心地に向けて駆け抜けていた。向かうはレツィンクの拠点。ファインと合流して、可能ならサイを説得して迎え入れ、拠点をつぶす。本当なら本部に帰りたかったが、サイの命は一刻を争う状況だ。言われた通り一度先遣隊として向かい、空路や陸路での応援を待つのが得策だろう。
 ――ひょっとしたら二人とももう死んでるかも知れねェな。NAPDの副チーフともあろう奴らがそろいもそろってヘマやらかして、お前の死体が上がったら笑っちまうぜ。神経すり減らしそうなことやっててお仕事大変なこって。
 かれはほくそ笑んだ。
 自由になれさえすれば、それでいい。最近、周囲の元受刑者たちの士気が上がっていくさまが居心地悪かった。NAPDの正義は誰もを救わない。実態のないものがいかにも王者のように大手を振って歩いていることに吐き気がする。そんなところにいるくらいなら、レツィンクの面々が綿密に練ったであろう計画が破綻するさまを見て笑ってやりたい。それで食いたい。
 ――あの女にしろ、犯罪者が犯罪者らしいことをやってるだけだ。話をしたいならするで勝手にしたらいい。まあ、今みたいにがっつり裏切ってる方が悪人らしくて清々しいな。
 隣の青年警官に視線を滑らせた。親友の安否が気になるのかわずかな焦りを張り付けながらも、犯罪者の前とあって冷静さを保とうとしているらしかった。
 ヴァニタスは人々の視線を避けながら呼びかける。
「一緒に頑張って、二人を連れて帰りましょう」
「……お前、やっぱり気色悪ィな……」
「俺は、あなたのことを怖いとも悪いとも思いませんから。怖い人が過ちを犯すんじゃない。人の犯したあやまちが怖いんです」
 怖い人が過ちを犯すのではない、怖いのはあくまで過ちそのものなのだ。あなたは悪くない。こんな盲信じみた性善説? を澄み切った瞳で言うから、煽り笑顔をする気力も起きずに閉口した。こういうところが一番気味が悪くて動揺する。まあ、警官から『悪いとは思わない』とお墨付きをもらったんだから、自分の行動を他人に責められた時の言い訳にはなるだろう。
 もとよりこいつのことは苦手だった。自分の起こした事件について根掘り葉掘り聞かれ、ストーカーのようにつきまとわれていたのだ。班分けが別になったから逃げきれたと思っていたのに、今回こうやってお目付け役を賜るなんて。
 ――これだから、『優しい人間』ってのは反吐が出るぜ。
 ランディー・パーカーは善人を嫌悪している。
 かれは4歳の時に母親によって山奥へ捨てられたあと、狼とともに深い森の中で生き続けた男だ。警察に発見・保護されるまで実に4年もの月日を要し、その頃には既に言語野に異常をきたしており気性もすっかり荒くなっていた。自身を棄てた母親のことなど、ましてや自分とは別の場所に棄てられた妹のことなど、もう覚えているはずもなかった。
 警察が対応と家族の捜索に難航していた折、とある教会の牧師が引き取り手を買って出た。自分の名前すら発せずにいた少年に牧師は、オオカミを意味する『ランディー』という名を与えた。教会での生活はひどく卑しいものだった。そこではランディーのような薄汚れた人間を反面教師にして、正しく素直に美しく生きようという教えを子供たちに説くかんとする場所だった。狭苦しい部屋でろくに食べ物を与えられず、子供たちからはいじめを受け、そうして人が真っ当に生きるための見せしめにされた。神聖さの皮を被った、吐き気を催すような場所。十四歳、夜更け過ぎに彼は逃げ出した。その翌日、教会の牧師と子供たちを皆殺しにして行方をくらませた。
 教会での生活から解放されてなお、心の中には恨みつらみが宿っていた。矛先は両親に、ひいては母親へと向けられる。なぜ自分がこんな目に遭わなければいけない? なぜ自分を産んだ? 問い詰めようにも自分がどこからやって来たのかすら分からない。居場所の特定は困難を極めた。そうして日々を過ごすうちに辿り着いたのは、「たくさんの罪を犯して、その火の粉を間接的に母親に被らせてやろう」という意識だった。どこだかのテレビスターが特番で言っていた。犯罪者の両親は世間からの非難を受けるのだと。
 その後、彼は若者中心の非行グループに所属。そのグループを壊滅させた殺し屋を殺害。彼の弟子か助手だったのか、ウェンズデー……覚えてもいない実の妹と再会。その後少年院に入り、彼は衝撃の事実を知った。
「お前自身が母親を食ったのだろう」
 彼がまだ山奥にてオオカミと過ごしていたころ、警察に保護される数か月前のこと、彼は山に入ってきた一人の人間を食い殺している。それこそが実母だった。
 母は父から子供たちを守ろうとしていたのだった。一家の父は子供を売りさばく人身売買組織との繋がりがあった。そのことを秘密裏に知った母は、息子と娘がその手に渡ることを恐れた。それゆえに苦渋の決断として幼い二人を眠らせ、置き去りにして、自らも身を隠した。数年が経って、母は一縷の望みをかけて息子を探しに行った。そして確かに再会したのだ。捕食者とその獲物という姿で。思惑がどうであれ母親のことを許せなかった。許せない。分からない。気持ち悪くて、仕方がない。
 やさしさなんざ反吐が出る。
 脇道へ分けいる。大都会特有の人臭さの中を進んで行った。ファインの伝達通り道を辿ると、街灯は背中の後ろに通り過ぎていく。
 ふたりはしばらく歩を進めていたが、ランディーはふと立ち止まった。それは、セントラルパークでも見せた落ち着きのない動きにも似ていた。かれは懐から、――ナイフを取り出した。細かい傷がつけられて僅かに濁った、切れ味の悪そうな刃。それを眺めながら、彼はぼやく。
「ここからは別行動だ」
「え……?」
 ヴァニタスは狼狽していた。監視対象の犯罪者が、突然ナイフをちらつかせて単独行動を望んでいる。意図を測りかねているようだった。
 ヴァニタスの懐の中には毒がある。食人鬼であるランディー・パーカーをも死に追いやれる毒が。何かあった時、使いどころは君に任せると言われていたのだ。今が使い時ということだろうか。でも、どうやって活用すればいい?
 何かあった時、使いどころは君に任せると言われていたのだ。今が使い時ということだろうか。でも、どうやって活用すればいい?
 考える間もなく、褐色の喉仏が動いた。鋭い目付きがヴァニタスを刺す。
「おい。さっきの毒を出せ」

 それはバディ発表がされてまもなくのある日だった。執務室を訪問したことがある。扉横の機械に視線をかざすと、網膜認証が作動したのか、静かにドアが開く。現れたのは、現場あがりという印象のラテン系の男性だ。仕事中らしかった。
「失礼します、リトートさん。少しお時間よろしいですか? プログラムの件で、聞いておきたいと思ったことがあるのですが……」
アネモネ、お疲れ様。何でも言ってくれ」
 来客用のソファに座る。上官にコーヒーを勧められ、口をつけた。おそらくインスタントではないのだろう、ほのかな苦みとコクが口の中に広がる。カップをソーサーに戻した。
「ありがとうございます。……単刀直入にお聞きしますが、まずひとつ。何故私がフェニックス班の副チーフに選ばれたのでしょうか?」
「知っての通り俺はプログラム責任者で、全体の統括や上との折衝が多い。そんな時に、アネモネ、君に監督をこなしてもらいたいと思っている」
 既に答えを用意していたのか、まるで台本を読んでいるかのようにすらすらと返事された。ファインにとってもあくまで予想できた答えだった。
「そうですね。ありがとうございます」
そしてやや伏し目がちになって、
「もうひとつ。上官の采配に口を出すようになってしまうのですが、……何故、私のバディとしてあの男が選ばれたのでしょうか。彼は協力的でもなければ、更生する姿勢も感じられません」
 あの男。その声が指す人員が誰かということは明らかだった。
「俺も君と同じ認識だ。だが――これは例え話だが――凶暴な犬にこそ、丈夫な手綱が必要だろう?」
 続く言葉を神妙な表情で聞き、ファインは頷いた。
「なるほど。分かりました。私があの犯罪者の手綱となれるかは分かりませんが、NAPDの為にも最善は尽くします。お時間、ありがとうございました」
 礼を言って部屋を出た。
 ――ファイン・M・アネモネは犯罪者を嫌悪している。
 初めて見た犯罪は、ジュニアハイスクールに通っていた時だった。『僕』は、ある程度仲が良いグループといつものように放課後の街を歩いていた。その中でひとりの友人が、ママにお使いを頼まれたのでスーパーに寄りたいと言い出した。僕たちは賛成し、皆で買い物に付き合うことになった。それが嘘だと気づいたのはすぐ後のことだった。僕はそいつがスナック菓子を盗むのを見つけてしまった。それが悪いことだと思っていた僕は、すぐにやめるように言った。なのに、そいつらはバレなければいいのだと言って笑っている。寧ろ僕が悪い人だと言いたげな目を向けてくる。
 同調しなかったのが悪いのか? それとも、悪いことを悪いと言ったのがいけなかったのか? 何故平気な顔でそんなことをするのか? それを目の当たりにした僕はただ吐き気を覚えた。何よりも、ただずっと気持ち悪かった。
 父は弁護士だった。幼い頃の自分にとってはそれが憧れだった。ただ、あの日から犯罪を嫌悪するようになった『俺』は、同時に父のことも嫌悪するようになった。一度そう思ってしまうと、簡単に憧れなんてものは塗りつぶされていく。なぜ犯罪者の弁護をするのか。なぜ罪人の罪を軽くしようとするのか。俺にはそれが理解できない。罪を犯したなら相応の罰が必要だ。俺は犯罪が嫌いだ。罪人が嫌いだ。だからこそ、俺はあの男すらも許さない。
 父に背を向けて、私は警察官を目指すことを決めた。警察であれば犯罪行為を取り締まることができる。犯罪は悪だ。犯罪は罪だ。たとえそれがいかなる理由であろうと許されるべきではない。過ちを犯すのもまた人間ではあるが、それが法に触れるのは以ての外だ。すべての悪は裁かれるべきだ。犯罪者は檻の中にいるべきなのに。実際、父の弁護したサイが裏切り者になって都市に危険をもたらしているのだから。
 私にもっと、権利があれば。私にもっと、権力があれば。この正義を証明することができるはずだ。昇進を目当てにプログラムに来た。社会のゴミ共に触れられる嫌悪感は、警察官との接触すらも避けて潔癖症と偽ることでごまかした。
 自分のバディとなった、あの男への感情はよく考えなくてもわかる。彼に嫉妬していた。心が焦げ付くほどに羨望していた。犯罪者がなぜ正義と言われているんだ?
 このプログラムにレツィンクからの内通者がいるかも知れないと聞いた時、真っ先にお前がそうであったら良いのにと思ったのだ。お前が内通者だったらすぐにでも殺していたのに、殺せたのに! ――お前は潔白だった!!
 それはもはや本能に刻み込まれた嫌悪感であり、静かな殺意だった。絶対に交わることのない、それぞれの正義。
 もうすぐ先遣隊がこちらへやって来るころだろう。この前まで確認できたサイの姿が、今はどこにも見つからないのも懸念事項だ。
 上階をくまなく確認しながら歩いていると侵入者に警戒するようにとの連絡が入った。何にせよようやくか、と考えて、ファインは歩き出した。
 Morphine……モルヒネは麻薬だが麻酔にもなる。はちみつは栄養豊富だが乳児に与えれば死の危険性がある。アネモネは美しい花を咲かせるが、その中には毒をも有する恐ろしい花だ。
 重戦車並みの膂力をもつ兵士を前にして用意した搦手。それはヴァニタス達に託した毒を『獲物に仕込むこと』だった。たかがナイフ、一撃ごとのダメージは小さい。しかし大事なのはダメージ量ではなく、毒物をもってデバフを重ねることだ。そうすれば最終的に優位に立つことができる。
 つるつるした金属の表面に毒を塗るのは難しいため、毛細管現象を利用し、ナイフ側面に無数のキズをつけて沁み込ませるのだ。
 刃物に毒を塗る技術は古くから研鑽されてきた。
武器に毒を塗布する効果は、殺傷力を上げるだけではない。『直接血液に入ると有毒、しかし経口摂取ならば危険性は低い』という性質の毒は、狩猟にも利用価値があるのだ――『毒殺した動物を食用』にできるから。
 その隙をどうやって作るか……わずかに息をついた。先遣隊との連携が、もっとも試されるところだろう。ふと窓に目をやる。ガラスに映るのは端正な顔立ちの男。表情すら変えず、しかし確かな殺意を抱いている青年。ファインは心の中で呟いた。
 ――あなたには、『私』がどう見えていますか?

 

 

後編

 ずらりと並んだ薬品棚のケミカルなにおいと、台所の饐えたにおい。毎週殺人事件が起こるような貧民街で、ならずものを親に生まれた。荒廃はあまりにも身近にあって、空腹や風邪の時でもそれがつらいのかどうかさえ分からなかった。命の大切さ、慈悲、他人に対する思いやり。彼女にはそれがまるきり欠けていた。他人を本当に愛したこともなければ、愛されていると感じたこともない。自分の行う罪の重みをまったくわかっていないし、自分が本当に悪いことをしたのかどうかもわからない。そして、何より、自分にすら価値を見出していなかった。どうなっても構わないと思っている。およそ人の心と呼べるものがなかった。底辺出身の子どもは大抵まともな家庭の子どもに比べてずっと早く大人になる。優しい言葉や思いやりではなく、感情を殺して他人を出し抜いて自分を守る方法を学ばなければならず、そのためにトロイメライの童心の日々が犠牲になる。
 それでもある日、誰かに救われて、善く生きてみたいと思ったのだ。幸福とは、荒れた濁流のはざまで足元をさらったときに、手のひらにわずかに残る砂金。
 『いい子』になろうと、周囲の人間の依頼に応えて闇社会で生きていた時に、組織の人間が接触してきた。「貴方が探している”恩人”の情報を知っている。助けたいなら情報を提供しろ。逆らえばどうなるかわかっているだろう?」そう言われた。だから今までずっと組織の手駒として活動してきた。
 スパイは自分以外誰も信用しない。相手が何を望み何を考えているかを観察し、信頼を得て懐に入り、常に最悪のケースを想定して動く。ある時、疲弊した元受刑囚に取り入ろうと優しくしてあげた。話を聞いて慰めてあげたら、こんなことを言われた。「サイちゃんは優しいね」「俺は甘えてばっかだね」。でも相手がそんなことを感じていても、自分の行いは相手を想っての行動ではない。相手を慰めたいとか励まそうとか考えてるわけでもない。優しい行為がいつでもやさしさを内包しているとは限らないのだ。そんな風に、クリスを傷つけ、ヴァニタスを貶め、アルベルトを利用し、レナードに硫酸をかけさせ、皆を裏切った。けどリアム、わたしは、あなたとのあの誓いだけはやぶれない。心に芽吹く温かさも痛ましさも全て、あの時もらった大切な宝物。それを守りぬくためならどうなってもかまわないと思っていた。この命に代えても、大切な人を守る。――そのはずだった。
 山荘ですべての仕事が終わって、自分たちはこの拠点に呼び出された。いつも服用していた薬も与えられず、武器も取り上げられて、処遇に違和感を覚え始めたころ上室に呼ばれた。物々しいボディーガードを後ろに控えさせて、指示を下していた組織の人間は眉一つ動かさず告げた。
「今までご協力ありがとうございました。貴方が探していた”恩人”は、NA市警更生プログラムに在籍していた警察官です。最後のお礼として教えて大切なことを教えてさしあげます。まあつまり、プログラムに在籍しながら我々に手を貸すなど、滑稽な行いでしたね」
「――殺すぞ」
 全身の血の気が一気にさあっと引いていった。段々釣り合わなくなっていく要求の末路がこれなのか。直後に体を切断され、生ごみのように暗い空き部屋に投げ出された。自分の身体に鉄臭いにおいが染みついていることがわかった。
 ――今まで何をしていたんでしょう。大切な人のために、大切な人へとつながる道だと思っていたものが、大切な人の否定するもので、憎むべきものなのだから。大切な人のためにと思っていたのに、彼らが「警察」という法組織の中にいることで、すべて否定されてしまう。
 犯罪者や、組織のスパイとしてでなく、普通の女の子として大切な人の傍に立てたらどんなによかったろう。細い体の中で様々な情動が渦巻いていることが、苦しくて苦しくて仕方がない。これって私のわがままですか?
 血だまりに佇む。出血で朦朧とする中で、彼女は何度も何度も過去を思い返していた。

 同時刻。ランディー・パーカーはナイフを携えてレツィンクの拠点の中を堂々と闊歩していた。どういうことか、ともに行動を命じられたヴァニタスの姿はどこにもなかった。
 ファインの指示通り、使われていない管理用の通路を進む。人気のないコンクリートの廊下に足音が反響していた。工作によって、このエリアのすべての管理システムはオフにされているのだろう。一歩を踏み出すたびに電灯は背中の後ろに遠のいていき、先はどんどん暗くなる。でも構わない。この道は初めてでも、GPSの位置情報をたどって行けばよい。あの独善野郎から離れて、彼には開放感すらあった。自分の内側で煮え滾らせて抑圧してきた感情を、つい零してしまいそうになるのだ。優しさなんざ、気持ち悪い。
 そのまま管理用エレベーターに乗る。中は蒸していた。何事もなく上昇しているようだった。しかし突然、錆びたイエローのランプの点滅が止まる。ぐらりと足元が、全身が振動する。
「チッ!」
 舌打ちをひとつ。予想はしていた。そう簡単に拠点へ忍び込ませてくれるわけがない。天井のハッチを破壊して上を見ると、迷彩服に身を包んだ男が『エレベーターのメインロープを切断しようとしていた』。おそらくこの組織の構成員だろう。
「は、面白いじゃねェか……!」
 ランディーはハッチに腕をひっかけ、持ち前の大柄な体を存分に使って外へ脱出した。エレベータ横の昇降路に足を置き、壁を蹴って箱の屋根に乗る。音のひとつもたてないで敵と睨みあっていた。
 すると目の前のそいつは、懐から布の包みを出した。昇降路のランプが断続的に包みを照らし、血生臭い匂いが漂ってきた。
「お前たちが探していたのは、これか?」
 丁寧にくるまれた布がはがれおち、包みの中身があらわになる。それは人体の一部分だった。第二関節のあたりで切断された、きゃしゃな五本の指。防腐加工もなにも施されていないのか、切断面から血液がとろりと滴っている。それが誰の指かは、聞かずとも分かった。
 相手は口を開く。
「あの女にGPSを仕込んでいることはわかっていた。だから彼女のGPS接続部分を切断しここへ残して、残りの部分は別の場所へ運んでおいた。あなたたちへの釣り餌とするために」
「洒落てンな」
 とランディーは嗤った。闇社会の悪人共がどんな手を使うかは、生憎これまでの人生でよく知っている。彼は罠を見抜き、サイの救出をヴァニタスに任せたうえで、自分はあえて『釣り餌』に乗って根源を叩き潰すことにしたのだった。
 ふいに風が頬を撫でた。足場となるエレベーターはじわじわ上昇していく。よれたワイヤーが揺れていた。危険を感じた直後、ランディーは後ろ手に首を締めあげられかけた。すかさず避けて、男の体を地面に叩きつける。したたか背中を打ち付け、相手は動かなくなった。
 雑魚ほど小細工に頼るもんだ。笑っちまうぜ。意識を失った相手を置いて、かご室の中に戻る。上階でドアが開くと、きれいな白髪の男が顔色も変えず「OPEN」ボタンを押しっぱなしにしているところにかちあった――ファインだ。すんでのところで地面を蹴って、エレベーターホールに躍り出る。
 今までランディーは、ファインのことを行儀のよい警官にすぎないと思っていた。それは彼の上品な育ちからくるものだと思っていたが、それが大きな間違いであったことを彼は思い知った。いま、彼の全身はぴりついた殺意を纏っている。
「少し時間がかかりましたね。ハックさんはどうしたのですか?」
「あ? 向こうが罠張ってきたから別行動させただけだ」
「この期に及んで勝手な行動をしては危険ですよ。報告をしなければ」
 眉をひそめて窘められた。ファインの台詞は正論だ。だがヴァニタスと共にいれば確実に危険が増えていた。自分の判断が間違っていたとは思わない。
「ナイフは持っていますね? それを利用して相手を弱体化させなければなりません」
「人を都合よく顎で使いやがってお説教か。正義ヅラしてのオナニーはさぞかし気持ちいいだろうな。羨ましいぜ」
 口からすらすらと皮肉が漏れ出る。ファインはいつもより一層冷めた目だった。
「不満に対して、威圧で応えても何も解決しませんよ」
「その割には自分も随分とイラついた顔してるように見えるぜ」
 鉄面皮の男。ファイン、お前にとってオレはなんだ? 自分は善行をしている、善人であると浸るための道具か? 道具として都合よく利用しているだけだろ。オレはお前たちとは違う。それはテメエ自身が一番よく知ってるはずだ。残念だな、ご愁傷様だぜ。
「証拠品とホシは奥だな?さっさと行くぞ」
 そう言ってかれは奥へ進んでいった。
 いっぽうでファインは、捨て台詞の中に、彼自身が持つどどめ色の割り切れない感情を見た。
 無謬の人生。潔癖なまでに清廉な日々に落とされたひとつぶの染み、それがランディー・パーカーだった。善悪に振り回された人生のかたすみでいま、二人は並んで立っている。
 ぼんやりした視界の中で、長い廊下のはるか向こうを見据える。朧気な明かりを背にして、白い服に身を包んだ女が眼前に立っていた。間違いない、情報にあった首魁だ。白髪に青の瞳。その下の皮膚はいくつもの剣戟を受けたあとのように細かな傷がついている。顔立ちは人形のように整っているが、鼻は憎しみにひしゃげており、口端はゆがんでいた。
敵はゆっくりと二人を見やっていた。

 ――サイの肉体の一部分が刈り取られていた。ランディーと別れてすぐに、その報告が届いた。焦っていた。上階へ向かう途中、何度もけつまずきかけた。
 ファインの通信を頼りにたどり着いた、空き部屋の窓枠に彼女は腰かけていた。淡い金髪が冷たい夜風にさらさらと揺れている。足元はなぜかべっとりと血糊でぬれて、手袋に包まれた右手をもう片方の手で包んでいた。満天の星空を背後にして、彼女はぽつりとつぶやいた。
「ヴァニタス……」
 彼女は何かを決意したように唇を真一文字に結んでいた。色白の顔がさらに青ざめて見える。    彼女に届くようにと願って、ありったけの声で叫んだ。
「サイ!よかった、ここにいたんだね……このままここに居たら危ない!早く帰ろう」
「……私が間違えたの……」
 サイは、申し出を断るように首を左右に振った。体調が悪いのだろうか? 様子がおかしい。その時ヴァニタスは、彼女が向けてくれた微笑みのうち、どれだけが心からの笑みなんだろうと思ってしまった。目元のゆがまない穏やかな笑顔はとても演技には見えなかったのに。
「どういうこと?」
「……ここに来る前に、組織の人から言われた。『組織に協力してくれるなら、君の”恩人”探しを手伝ってやろう。けれどどうなるか分かるだろう?』って……でも、それは全部組織の嘘だった。わたしは『良い子』になりたかったのに、もう二度も法を犯して、大切な人を裏切った……」
 彼女は右手で顔を覆う。その手には五指がなかった。
「ヴァニタスは一緒に更生しようって、言ってくれたのに……私が……一人でやろうとしたから。私のせいで……私のことを迎えに来てくれたヴァニタスのことまで……」
「……サイ」
「私、ヴァニタスを守りたい。守りたかったの……」
 胸が千々に引き裂かれるようだった。君に守られたし、救われたんだよ。俺も君を守りたい。何かを、誰かを大事にしてあげたいとこんなにも思うのに、実際にそれを伝えきることは本当にむずかしい。
「俺ね、思い出したんだ。自分が今までどんなふうに生きていたか、ぼろぼろだった俺にサイが手当てをしてくれてたこととか」
 胸が千々に引き裂かれるようだった。もう十分君に守られたし、救われたよ。俺も君を守りたい。何かを、目の前の君を大事にしてあげたいとこんなにも強く思うのに、実際にそれを行うのは本当にむずかしい。
「数か月前NA市警で出会って、サイと友達になれて嬉しかった。 色んな仕事で協力できて嬉しかったよ。そして今、君と過ごした時間を思い出せて、サイが生きていてくれて、思ってることを聞かせてくれて、俺はすごくすごく、嬉しい……」
 慎重に言葉を選びながら続けた。そうしないと涙が出てきてしまいそうだったから。
「サイが『運命の人』のことどれだけ大事にしてたか、俺はよく知ってる。脅されてたんだよね。大切な人を守るために必死に悩んで考えてやったことなんでしょ。もういいんだよ、終わりにしよう」
 息をついて、
「すぐには難しいかもしれないけど、俺も頑張るから。サイが無事に帰って、罪を償って、違うやり方で願いを叶えられるように手伝うから。だから想像してみて。サイ、君はどうしたいの?! 今思ってる本当の気持ちを聞かせて!」
 彼女は窓枠に腰かけたままでいた。碧眼に薄く涙の膜が張っている。
 ヴァニタスの言葉があつく身にしみた。ただ『いい子』であるために他人に従って、そのためなら自分や他人の道徳を犠牲にしてもいいと思っていた。君が伝えたいこと……他人のために動くことにも善悪が関わってくること、誰かの利害損得にも世の中一般の正義というものさしがかかわっていること。誰かを親身になって守りたいという、普遍的な愛。それがわかったから。
「一緒にいたい……」
 彼女は血と涙で乱れた顔でつぶやいた。ヴァニタスは同じく、涙に濡れた顔で微笑んだ。それからサイの左手をとって、非常階段への道を駆け出していった。それは矛盾に満ちた人生のなかで、親友という光明に照らし出されたかけがえのない瞬間だった。