&party

周波数を合わせて

Lemonade #13「To be real」

 What you see is what you get.
 人間を形作るのは、「経験」なんかじゃない。「思い出」だ。理論上、過去と同じ展開はありえないとわかっている時でさえ、人間は脳内のイメージに強迫観念を押し付けられ、それに逆らうことができなくなっている。たとえば忘れ物をして先生に怒られて、明日の持ち物を確認する。こんな時、人間の行動は記憶から学習し、それに縛られている。
 記憶は人間の行動に限らず、世界の在り方さえもコントロールする。人間にとって、記憶されなかった事象は初めから経験しなかったのと同じだ。たとえば、認知症の老爺に可愛がっていた孫を見せて、それから今朝食べたご飯のメニューを聞いたとする。老爺は何も答えられない。このとき、彼の世界には孫も朝ごはんもはじめから存在していないのだ……これはちょっぴり悲しい話かもしれない。

 ――さて12月27日、時刻は朝8時半。ロウ班の面々はミーティングを終えて、それぞれ持ち場で仕事を始めていた。本部棟ブリーフィングルームでは、ヴァニタス・ハックの記憶を取り戻すためのカウンセリングが始まろうとしていた。暖房が炊かれ、外との寒暖差でガラス窓がうっすら曇っている。部屋の中にはいくつもの機械が並べられていた。
 広い部屋の隅ではセオドアが書類仕事に勤しんでいる。スペースの問題で一緒に作業してくれと言われたのだが、ヴァニタスに余計な手出しをしないようにセオドアに見張らせたい、いうのが上の本音だろう。その意図を感じ取ったかどうか、レナードは不満げだ。ちなみにルイーズ、アルベルト達四人はタイムズスクエアのパトロールを任されて外出中だ。
「ヴァニタス、大丈夫か」
「――うん。クリスがついてくれるなら、安心できるから」
 隣に佇むクリスは、唇を薄らと笑みに変えた。
「それで、退院後もちゃんと一人でおねむできてるらしいな、大スター? 後はヴァニタスがちゃんと記憶を取り戻せるように、おまじないでも唱えてくれよ」
 レナードは芝居がかったため息をついてみせた。わざとらしくこめかみを押さえて、やれやれと首を振ってみせる。
「ハァー……クリス、オレはまだ本調子じゃないんだ。あんたがいちいちジョークを挟むもんだから、うっかり手元が狂ってヴァニタスの頭のネジをひっこ抜いちまうかもしれないぜ」
「病み上がりにしちゃ上出来な減らず口だ」
 煽りにも、クリスは乾いた笑いを返すに留めた。
 硫酸攻撃をうけ、人質本人に計画がばれて、彼の脅しも以前より効き目は薄い。クリスが彼を許すことはないとはいえ、憎しみは薄れつつあった。今の感情としてはむしろ同情心や憐みに近いかもしれない。なにしろようやくこいつの運も尽きたのだから。
 レナードはしばらく憮然としていた。反応の薄さがご不満なようだった。しかしかれは足を組み直し、悠々としゃべりながら端末を操作する。端末の画面には、黒髪の幼い少年の写真が表示されていた。
 そして眼前に座るヴァニタスをみつめる。
「さて。NAPDや過去の医師の診断記録を見せてもらったが、ヴァニタス、あんたの症状はいわゆる限局性健忘に近い」
「健忘……」
「ああ。これは解離性健忘――いわゆる『記憶喪失』のもっとも一般的な症状だ。例えば幼少期の暴力や望まぬ性行為、戦争、大量虐殺の経験、強制収容所行き、天災みたいな辛い経験をすることで発症する」
 言いながらレナードは、少年の反応を観察していた。そして例としてあげた単語の一つに、彼の体が反応していることに気づいた。菫色の瞳が怯えたように細められたのだ。頭ではトラウマを忘れたつもりでいても、肉体はきちんと覚えている、というやつだろう。
「かつて、記憶喪失の治療には薬物が用いられた。短時間作用型のバルビツール酸の静脈注射や、ベンゾジアゼピン……」
 レナードは傍らに置かれた、サイドテーブルを指さしてみせた。銀色のガーグルベースンの中にいくつかの飲み薬が置かれていた。部屋の明かりを反射して、紫や緑の液面がグロテスクに光っている。ヴァニタスは恐る恐るそれを手に取った。
「この中の液体は、チーフに取り寄せてもらった最先端の短時間作用型ドラッグ。この薬の摂取に加えて、人間の精神分析と心理機能に長けたオレが催眠をかけてやることで、ヴァニタスは記憶を取り戻せるというわけだ」
「安全だろうな」
「おっと、パパは過保護だな?」
 レナードは肩をすくめてみせた。
「クスリは健康省の証明書付きだ。オレも今更掌を返すなんて無粋なことはしない。心理学の学位とそこのセオドアに賭けたっていい、確実に記憶を取り戻してやるさ」
 実際のところ、他人を操って人生を破滅させる『遊び』が出来なくなった今、ヴァニタスの治療は彼の生きがいと言ってもよかった。
「――だが、問題は記憶を取り戻した後だ。そうだろう? トラウマに追い詰められて自殺なんてことになっても、オレは責任を取らないぜ」
 レナードは相変わらずの薄笑いだ。怪我の痕が残る顔立ちでも、飄々とした雰囲気は変わらない。
「……ヴァニタス。覚悟は良いか」
 問いかけられた。ヴァニタスは硬い表情で喉をならし、唾を飲み下す。
 人間のアイデンティティのほとんどは記憶に依存している。だからこそ記憶を失った人間は、自分の存在の空虚さに向き合わなければならない。自我が確立できない、自己が認識できない、生きる理由がわからない――ヴァニタスはずっと、そんな苦しみの中にいた。たとえ思い出すことを後悔するほどの辛い記憶が待ち受けていたとしても、かれは自分の過去を取り戻したかった。
「うん」
 こわごわと頷く。
「ハッハッ! そうこなくちゃな」
 レナードはおかしそうに笑った。彼はヴァニタスの前に立つ。ふうと息をつき、手をかざし、不敵な笑みを湛える。
「さあ、準備はいいか? オレのショータイムだぜ」

「……はい。お願いします、ドクター」
 かたい面持ちでヴァニタスはうなずいた。スミレ色の瞳が瞬く。
 レナードは、ピアスが揺れる耳元に唇を寄せた。何事かを低く囁く。資料から拾った、かれのトラウマを想起させるようなワードだ。聞きたくない! そうと思うと同時に、記憶の奔流が頭痛とともに脳に流れ込む。頭が痛い。かれは頭を押さえて俯いた。
 脳内で幼い子供の声が響き、そしてたくさんの記憶が、モノクロ映画の1シーンのように再生されはじめた。
『父さんと母さんが刺された。今は寝室のクローゼットに隠れてるけど多分見つかると思う。彼はだれ? なんで父さんと母さんを? 俺は殺される?』
『彼は俺に名前をくれた、ヴァニタス……ラテン語で空虚っていう意味があるっぽい……もし俺が邪魔になったらすぐに処分するって言われたから、俺は良い子にしてなきゃ、父さんと母さんは……いいや、考えるのはやめよう』
 その声は段々と怯えはじめる。
 脳内のモノクロ映画の中で、男が少年に向かって拳を振り上げていた。黒い髪に紫の瞳――自分によく似たその少年は、白い顔にいくつもの痣を作って鼻血を垂れ流していた。少年は恐怖に身をよじり、必死に助けを懇願している。このままでは死んでしまう。しかし男は少年の髪を掴み、逃げられないように頭を固定して、殴打の手を止めることなくさらに激しくしていく。
 頭に強い衝撃が襲ってきて、それと同時に映画のカメラワークがぶれた。やがてスクリーンが明るくなりカメラのピントがあうと、血で真っ黒になった床が映った。少年がじんじんと痛む鼻を触ると血でベタベタになっていて、ああ殴られたのだとわかった。男は少年の髪を引っ張ってまた殴る。今度は口の中が切れて血が出た。少年は抵抗しなかった。どうやったって逆らえないとわかっていたからだ。
 男は少年の腹にストレートを入れた。鳩尾を抉る一撃。
『彼がたくさん殴ってくる』
『こわい いたい さむい』
『いたい』
『いたくない』
 あるときから画面の中の少年は抵抗するのをやめた。
『これはきっと愛情だよ。――彼はたくさんなぐって、たくさんけってくるけどこれも愛情だよ。あったかい』
「ううっ……!」激痛に蹲った。
「大丈夫か? ヴァニタス」
 義父が心配そうに伸ばした手を、ヴァニタスは反射的に振り払った。まだ軋む頭を押さえて、苦々しい声で絞り出す。
「俺は……ヴァニタスじゃない! 俺の名前は……ノアズアーク、だ」
 眼前のクリスとレナードがぼやけて、焦点がぶれていく。脳内のモノクロ映画に色がついて、現実と溶けあっていく。現実になっていく。
 思い出してしまった。

 ヴァニタス・ハック――否、ノアズアークはNAの裕福な家庭に生まれた。父親は科学者、母親は弁護士。恵まれた環境で両親に愛されて育った。スタンリーはそのころの遊び友達だった。
 しかしかれは10歳のある日、凶悪犯によって両親を殺害され、誘拐される。そして凶悪犯から『ヴァニタス』という名をつけられた。
 ヴァニタスは誘拐後ひどく暴行された。初めこそ痛みと苦しみに困惑し、恐怖を覚えた。そしてそれを打ち消すために、かれは凶悪犯からの暴力を『愛情』と認識するようになった。数ヶ月後、凶悪犯はヴァニタスを息子として育てるようになり、彼もまた凶悪犯を父親として愛するようになった。
 幼馴染と出会ったのはその頃のことだった。顔色が悪く、本の虫で、いつも傷だらけだった少女。当時明るく積極的な性格だったかれは、すぐに彼女と仲良くなり友達になった。自分の話を聞いてくれて、怪我を見てくれて、誰よりも優しい彼女が大好きだった。自由になって、父親が許可してくれたら、彼女のいう『運命の人』を探しに行こう。二人はそう約束し、それが実現できると心の底から信じていた。
『俺とサイならどこまでも行けるよ! 世界中のどこまでも! だって俺達は親友だからね!』
 やがて月日が流れ、ヴァニタスは17歳になった。クリスマスの夜、かれは凶悪犯のために菓子を買いに行った。「きっと喜んでくれる」、そんな事を考えて。しかしその間――サイから事情を聞いたのだろうか――アンデッドによって、凶悪犯もろとも家が放火された。自由の身になったヴァニタスはその後、警察に保護されることとなる。
 ヴァニタスは気づいた――あぁ、俺は凶悪犯のことを心から愛していて、彼のことが心の底から怖かったんだ。狂っていたのは俺だったんだ。こんな記憶、存在しない方が良い。辛いことと狂おしいほどの愛情は忘れてしまった方がいい。父さんも、母さんも、そして自分のことも、全部全部忘れてしまおう。何も知らない自分は無知で、静かで、空っぽで、恐ろしいくらい汚い存在だった。ヴァニタス――空虚なんて名付けた凶悪犯の気持ちが少し分かったような気がする。
 そして自分自身にむけて呟いた。おやすみ、ノアズアーク
 その後、ヴァニタスは警察に保護される。かれは読み書きや話すことはできるものの、自身の記憶を全て失っていた。事件の内容や犯罪者の容姿について聞かれても、ただただ首を横に振ることしかできなかった。自分のことが全く理解できない。
 やがて、妻子を失ったクリスが、恐怖に包まれていたヴァニタスを引き取って育てることとなる。かれはクリス達と関わるうちに自我を取り戻し、対話をしたり他者に興味を示したりできるようになった。
 それがかれの人生の真実だった。

「……思い出した」
 目が潤む。熱い雫はつうと頬を伝って、顎に溜まって妊婦の腹のように膨らむ。やがて自重に耐えきれずぽたぽた流れ落ちた。ヴァニタスはそれを袖で拭おうとして、クリスがハンカチを差し出してくれたことに気づいた。それを受け取り、涙をぬぐった。
 自分の過去は、拷問の痛みの記憶であり、同時にスタンリー、サイ、アンデッドとの思い出でもあった。もう全部今更なことだってわかってるけど、どうして思い出せなかったんだろう。アンデッドにどこかで会ったような気がしていたのも、サイが自分の事を呼び捨てで呼んで世話を焼いてくれるのも、スタンリーが時折自分の様子を気にかけていたのも、思い出あってこそだった。でも自分はそれにちっとも気づくことないままで過ごしていたんだ。
 自分はたくさんの人達に支えられてここまで生きてきた。他人への依存から生まれる幸せは儚い。 ヴァニタスは椅子を立ち、ふたりにしかと向き合った。
「ドクター、お世話になりました。クリスも心配してくれてありがとう。でも、僕は過去と向き合って、自分で自分の道を探します」
 何も知らないで見る分には少しも格好よくはない。怯えに歪み、涙さえ滲んでいるように見えた。肩も足も震えている。だが傍で見守ってきたクリスには分かった。これこそがヒロイズムなのだと。空虚な内面に押しつぶされそうな中でも勇気を手にして立ち上がる姿が、ヴァニタスのヒロイズムなのだ。
 クリスは何と返そうか考えあぐねていた。その間にブリーフィングルームの扉が開いた。入口近くで書類整理をしていたセオドアが、お疲れ様ですと声をかける。パトロールに出されていたメンバー……アルベルトとアンデッドがひと足早く帰ってきたらしい。
 部屋の中には椅子に座るヴァニタス、傍で様子を見守るレナードとクリス。挨拶をしようとしてアルベルトは口ごもる。この三人の面子を見て、嫌でも思い出してしまったらしい――自分が人質として扱われていて、親友に負担を掛けていたことを。何と言ったら良いのか迷っているようだ。
 アンデッドといえば興味深そうに笑い、なんとも生意気な表情でヴァニタスとレナードを見ていた。パンツのポケットに手を突っ込み、二人の椅子の前で仁王立ちになっている。
「お〜やおや。誰かと思えば、サボリ警官に『元』色男、ガキじゃねえか」
「えっ、あっ、はい!」
 率直な問いかけに、背筋が伸びた。
 ヴァニタスは、アンデッドのもとに歩み寄った。ぶかぶかのジャケットから伸びるちいちゃな手を掴み、細い指先をしっかと握りしめる。そしてささやく。
「あの……今まで気づけなくてごめんなさい。今更になっちゃったけど……あの時俺のことを助けてくれたんですね。本当にありがとうございました」
「……記憶戻ったのか?」
「はっ、はい」
「礼を言われるようなことじゃねえ」
 アンデッドはフンと鼻を鳴らして、軽く手を振り払う。そしてせいぜい頑張るこったなと言い放った。
「ど……どうしてですか……」
「……言わなきゃ分からねぇか?俺は恩人なんかになりたいわけじゃねえ」
 アンデッドは片頬で笑う。
「お前の人生の責任取るなんて嫌だね。思い出で縛ったりするなんざまっぴらごめんだ。どんな憧憬だってどこにも存在してほしくない」
 彼なりの心遣いであった。自分のような悪人には手の届かないところで幸せになってほしいという願い。挑戦的な言動は相変わらずだが、そんなかれだからこそ、炎の中から子供を助けるなどという無謀な行為ができたのかもしれない。
 クリスの方は青の瞳でかれを見ていたが、やがてアルベルトに視線を移す。普段通りにふるまおうとしてはいるが、僅かなためらいが見て取れた。ふうと息をついてささやく。
「この前は電話ありがとうな」
「……俺は、親友失格だよ」
 思い詰めたような言葉に、クリスは失笑してみせた。そのまま続ける。
「まだ気にしてるのか。ミーティングの後の電話でも言ったろう? あのホテルであんたの指揮がおかしかったのも、レナードに非があったからだ。それは監督不行きだった俺の責任でもある」
「……わかってるけれど、どうしても自信を持てないんだ。こんなにもきみを好いて信頼して最高の友人だって思っているのに、レナードの言葉が脳裏にちらつく」
「勝手に不安になるな。たった何か月一緒に居て脅迫してきた人間と、何年も付き合ってきて親友にまでなったあんただ。比べるまでもないだろ。作戦が無事に終わってお互いに生きてたら……その時はまた、ちゃんと話をしようぜ」
 クリスが拳を突き出す。長年友として歩んできた二人の、おきまりのポーズだった。アルベルトは逡巡していたが、こつんと拳を突き合わせ、仄かな笑みを浮かべた。
 それぞれは、ぎこちないながらも、かつての絆を確かめるように話をしていた。その話を止めるかのように端末に通信が入った。どうやら、ルイーズたちも帰ってきたので、集合してタイムズスクエア警備の作戦を練り直すとのことだ。五人はゆっくりと腰をあげて、部屋の外に向かうのだった。

 自由の国アメリカ。その心臓、機構都市ニューアトランティスの夜景は煌びやかだ。立ち並ぶ摩天楼の中に、レツィンクの隠れ家のひとつがあった。
 合衆国テロ等対策法第24条3項により、レツィンクのような思想組織が米国の不動産を所有・賃貸することは出来ない。そのため、かれらはペーパーカンパニー名義でワンフロアを借り切っていた。マンハッタンの中心部とあって1ヶ月の賃料は150億ドルを下らない。黒い壁、ふかふかの絨毯、フロア全体に上質な雰囲気が漂っている。だが落ち着いた雰囲気の中に、香料では隠しきれない火薬の匂いが混じっていた。
 ファイン・M・アネモネは、上の特命を受けて潜入捜査の最中だった。スパイは自分以外誰も信用せず、狡猾に立ち回らなければならない。かれは監視カメラと人感センサーの死角を縫ってフロアを歩いていた。ガラス張りの廊下から監視されていないか窓の外に目をやる。眼下に広がる未来都市をながめた。かれは、この街に自由はあっても希望などないことをよく知っていた。もし自分が上帝なら、つかの間の繁栄すらこの愚かな世界には与えないだろう……心の中で呟く。
 かれは徐に足を止めて、廊下の曲がり角に佇む。曲がり角の向こうでは、サイと、白髪碧眼の長身の兵士が話していた。
 調べたところ、あの白髪の女兵士がこの作戦の首魁らしい。ホテルでセスを殺しレナードに暴行を働いたのと同一人物だ。コンクリート建ての建物を素手で破壊するほどの膂力の持ち主で、ベラルーシでの作戦では一個小隊を一人で壊滅させたという。まともに相手すればひとたまりもないだろう。
 ファインは聴力増幅チップを耳に取り付け、呼吸音すら抑え、二人の会話に耳を済ませた。
「――そんな……ことを……すれば、……だと仰っていたはず、では、ないでしょうか」
 サイの声だ。声が僅かに震えていて聞き取りづらい。プログラム中、余裕綽々の態度を崩さなかった彼女には珍しい。狼狽しているのだろうか。
「今更悩んだりするな。どっちにしろ、あなたは初めから今までずっと罪人で、ニューアトランティスの忠実な市民などではなかっただろう。何も変わっていない」
 兵士が冷徹に告げた。女にしては低い声だ。
「この都市を火の海に変えるのはあなただ。喜べ、人殺し」
 サイは僅かに俯いている。
 更生プログラム、NAPDの秩序を裏切った彼女は何を考えているのだろうか。サイについて、公的資料から分かることはそう多くない。ファインは慎重に二人の動向を見つめていた。
 女兵士は続ける。
「明朝、拘留されていたジョーンズ戦闘員が裁判所に護送される。われわれはその車を襲撃し、彼女を解放する。既に準備は整った」
 ファインは静かに目を細めた。良くない状況だ。
 さらに彼には違和感があった。本部から送られてきたサイのGPS位置情報と、今目の前に立っている彼女の実際の位置がわずかにズレているのだ。他の受刑者の情報は正常に機能している。機器のバグかもしれないが、もしかしたら――サイかレツィンクのどちらかに、GPSの存在がバレてデータを改竄されている可能性がある。一刻も早く調べを進め、搦手を考えなければ。
 ――タイムズスクエア襲撃予定日まで、あと4日。

 翌日、12月28日。空はうす青い絹に白をスパッタリングしたような色合いだった。まるで台風の前のような、穏やかな静けさである。
 タイムズスクエア。テロ予定地である世界有数の繁華街。マンハッタン42丁目と7番街を中心に位置し、6番街から9番街までに広がっている。建物外壁にはずらりと広告(ビルボード)が設置され、世界中の有名企業が広告やネオンサインを設置していた。交差点の中心に設置された、ひときわ目立つ電光掲示板では、NAPDや政府からの広報がしきりに流されている。
 平和、安全、人命救助。誰もが支持する綺麗なお題目だ。大切なのは、それをどのようにして実現するのか、という地道な仕事にほかならない。今日の仕事内容は変わらずパトロール&当日の警備計画の見直しである。仮想敵レツィンクは国際テロ組織。作戦立案は上層部が担い、多くの人員が動員されている。その中でも、最も危険な前線部分がプログラムメンバーたちに丸投げされていた。
 さて、テロはどのように起こるのだろうか? アメリカでこれまでに発生してきた爆弾事件では、ほとんどのケースで黒色火薬無煙火薬を用いたパイプ爆弾が使われてきた。例として、かつてシカゴで33階建てのデパートを爆破する際には1233kgの爆薬と点火用ケーブル10.9kmが使用された。くらレツィンクが優れた技術を持っていても、誰にも気付かれずに大量の爆薬やケーブルを持ち込むことは難しい。
 では爆弾設置ではなく、個人が襲撃するやり方はどうか。圧力鍋を使用した小型爆弾やマスシューティング(銃乱射)を防ぐため、現在ここ周辺では厳重な身体検査が行われている。またライフル協会の反対を押し切って、限定的な銃規制がかけられているそうだ。
 ヴァニタスはといえば、往来の隅に座ってPCの画面を見つめていた。自爆テロリストには特徴があることが分かっている。かれらは、爆発物を固定した太いベルトを腹部や大腿部に装着している。それ故、動きがぎこちなく、不自然に厚着をして、緊張感から神経質になり異常な態度をとるという。それを知ったヴァニタスはシステムを組んでおいた。交差点に監視カメラを設置し、特徴に当てはまる人間がいればすぐに判定できるようにした。しかし、
「……なかなか収穫がない……」
 世界有数の繁華街。テロとは特に関係のない、シャブ中やアル中のチンピラや乞食を検挙するはめになっているようだ。俺、やっぱり役立たずかも……。ヴァニタスはため息をつく。
 ちょうどそのとき。政策広告を流していた電光掲示板が瞬き、緊急ニュースに切り替わる。中年アナウンサーが興奮した様子でまくし立て始めた。
『先程入ったニュースです! セントラルパーク事件の主犯である、ティレシア・ジョーンズ被疑者を移送中の車両が何者かによって襲われました! ジョーンズ被疑者が逃亡を企てているものと思われます!』
「えっ!?」
 アナウンサーの横に見覚えのある顔が移し出される。ティレシアだった。
『中継をお送りします』
 横転したバスから黒い煙が上がっている風景が映る。レポーターは興奮した顔で、
『こちら現場からの中継です。周辺住民の皆さんは厳重に警戒してください――きゃあっ!』
 レポーターが悲鳴を上げる。画面の奥には見慣れた顔――ティレシアが立っていた。義肢をはめ直したらしい。彼女はおもむろに手をかざし、そのキャスターに向けて光弾を発射した。
 蛙が潰れるような声とともに、画面の奥でキャスターがくずおれる。カメラにパラパラと血飛沫がかかった。
『きゃははは! ざーこざーこ♡』
 ティレシアの悪趣味な高笑いとともに、もう一度爆発音。熱風と共にカメラが吹っ飛び、風景が横倒しになって移された。
『――中継を止めてください!』
 移送車から黒い煙が上がっている。そこで中継は終了した(というより、終了せざるを得なかった)。
「な、何なのあれ……」
 往来は混乱に包まれた。観光客らしいカップルは顔を見合せ、どうしたものかと不安げでいる。反対に、仕事を終えてバーの裏手から出てきた女などは慣れたもので、電光掲示板を見ても表情も変えず、すぐにバイクに跨って去っていってしまった。
 直後に通信が入る。上官であった。
『みんな、さっきの中継は見たな? 俺のほうもアネモネから報告をもらって状況が変わった』
 報告によれば、サイの様子がおかしいとのことだった。彼女は既にNAPD及び刑務所の内情を提供し終わり、更にスパイであったことがこちらにバレている。つまり組織にとって彼女は用済みだ。粛清される可能性が高い。
 ヴァニタスはただ青ざめた。大切な親友が、NAPDとレツィンク両方から命を狙われている。
『ハックとパーカー。君たちは先遣隊として共に拠点に向かい、アネモネと合流してもらう。とりあえずロウのところに行って指示を受けろ』
 ヴァニタスは急いでPCを畳み、7番通りのムーンバックス・コーヒーの前まで赴いた。チーフを前に、動揺のまま切り出す。
「あ、あの。どうして俺なんですか……?」
「レツィンクの科学力には目を見張るものがある。未知のギミックに遭遇した時、対処出来る人が必要なんだ。それに……サイちゃんに会いたがってるって聞いて」
「……はい」
 ヴァニタスは頷いた。
 セオドアくんも手伝ってくれているから、後方支援なら大丈夫だ。例えティレシアが本部を強襲したとしても迎撃出来ると思う……とチーフは言った。
「だからここはぼくたちに任せて、きみはランディーくんと一緒に拠点に合流して。……できるよね、ランディーくん?」
「どうせ従わなきゃ刑務所行きだろ。かったりィ」
 隣に立つランディーはしぶしぶながらも受け入れた。ヴァニタスは緊張していた。大切な親友の命と更生プログラムの運命がいま、新人警官でしかない自分に託されている。
「必ず、二人と合流します」
「ありがとう。それと……これはあの人からの言付けだけれど」
 そう言ってチーフは、手のひらに収まりそうな小瓶を渡してきた。貼られたラベルから、それがアンプルなのだとわかる。チーフは神妙な顔で告げた。
「中身は即効性の毒だ。扱い時はきみに任せると言っていた。よく考えて使って」
 指先が急速に冷えていくのを感じた。これから向かうのは敵陣、ともに赴くのはランディー……更生プログラムきっての凶悪な食人鬼だ。何があってもおかしくないということだろう。もし必要ならば、ランディーやサイに毒を盛って殺せ、ということだろうか。あるいは自害せよということか。
 ヴァニタスは改めて班のみなの顔を思い返した。昨日の思い出。義父であるクリス、沢山優しくしてくれたアルベルト、誘拐犯から助けてくれたアンデッド、一時は道を誤りながらも記憶を思い出す鍵をくれたレナード。続いてルイーズ、ジョーカー、セオドア、そして帰らぬ人であるセスにも思いを馳せる。だがもう一人、足りない。
 ――俺とサイならどこまでも行けるよ! 世界中のどこまでも! だって俺達は親友だからね!
 ヴァニタスは手袋に包まれた手をぎゅっと握り締めた。あの日君と交わした儚い約束を、現実にしたいんだ。今でも。
「ぼくたち皆、君たちに賭ける」

 通信越しにクリスが切り出した。
『寄り道するなよ』
「――ふふっ、子供扱いやめてってば……。……それじゃあ、行ってきます……!」
 ヴァニタスは頷いて、NAの街へ飛び出していった。冷たい風が、二人の頬を撫でていった。
 ――タイムズスクエア襲撃予定日まで、あと3日。