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【感想】「勝手にふるえてろ」発狂する拗らせロマンティック

ひらいて


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 2021年秋、綿矢りさ著『ひらいて』実写映画版が公開された。本作を一言であらわすなら感情の暴力。サガン悲しみよこんにちは』が好きな人にはたまらないでしょう。

 主題歌は同名の楽曲。女子の激情に造詣の深そうなアーティスト・大森靖子が選定されており、ターゲティングの巧妙を感じる。

 主人公の女子高生は同級生のたとえに片思いをしているが、彼には愛する彼女・美雪がいた。主人公はたとえと美雪のピュアな関係に割って入ろうとするものの、たとえを奪うこともできない。それでも直線の外側に立ち位置を築いてしまう。美雪のほうを篭絡して寝取ってしまうのだ。それでいて好きなのはたとえという歪な三角形。彼女は怒りと自信のままに女を剥き出しにして突っ走り、聖書にも救われないとぼやいて物語は閉幕。この主人公にとっての救いや神ってどんな形をしているんだ……

勝手にふるえてろ

 綿矢りさといえば、つぶさな観察眼による日常譚が印象的な芥川賞作家だ。しかし『ひらいて』のように熱量に溢れた女の子によるエキセントリックで毒々しい恋愛物語の名手でもある。

 後者の中でもっともお気に入りなのは『勝手にふるえてろ』だ。主役女子のパワフルさはそのままに、空想癖の激しいこじらせ女子を主人公に置くことで、彼女に呆れたり同情したりしながら楽しく読めるラブコメディとなっている。

勝手にふるえてろ (文春文庫)

あらすじ

 普段空想の世界に思いを馳せる内気なOL・ヨシカは、ろくに会話もなかった中学校の同級生イチに一方的に片思いをして10年目。同僚ニがアプローチしてくるものの、暑苦しさに辟易としていた。

 そんなヨシカだが、ある日ボヤで死にかけたことで一念発起し、同窓会を企画してイチと再会する。しかし本物のイチはヨシカの名前すら覚えていなかった。理想が砕かれ、一緒にいる時に違和感がない二に心を開いていくヨシカ。だが交際を決めた瞬間の次の返答が「俺まだ結婚は考えてないから」だった。なんで突然結婚の話なんてするの? 疑念のなか、彼女は同僚の来留美がニや周囲に自分のコンプレックスをばらしたと知る。結婚願望があること、彼氏いない歴=年齢であること、処女であること。わざとばらして私を貶めたんだ! 彼女は衝動的に口を開く。「好きな人がいるんだ」。ニを振った彼女は偽装妊娠で堂々と産休を取る。

 会社を休んで一人を満喫するヨシカだが、同時に孤独と向き合うことになる。今まで空想のイチとたわむれていたけれどその恋は叶わなかった。ニには見限られ、唯一の友人だった来留美もだましてしまった。傷心のヨシカはニを呼び出して口論をはじめる。今までうわべだけで接してきたが、本心で向き合ってはじめて「でもいくら好きだからってそのまま受け入れるなんて無理だ、相手に全部受け入れてほしいなんて乱暴だ」「これからヨシカのことを知りたい」というニの本音がやっとヨシカの胸に届く。「霧島くん、ねえ、怒ってるの」「いや、ほっとしてる」ニのやさしさが心地良いものだと気づいて、物語は幕を閉じる。

名台詞集

 本作の主人公は空想好きで人とのかかわりが苦手。その分会話シーンよりもモノローグが強烈で、人の心を突き刺さんばかりの鋭い文章が多い。人が本当に傷つけるのは恐れている相手ではなく愛してくれる相手、という言葉を思いだした。何度読み返しても綿矢りさの人間観が身につまされる。

・正直なのは良いこと、でもまったく魅力がない。恋をしたとたん正直になって魅力が消えうせてる。本人は正直のつもりでも、愛情深い人というよりただの欲深い人に見える。だって好きな人には正直でいたいという気持ちもただの欲望の一つだもの

・ニがもし完全に私に無関心になればどれだけ素敵だろう。(略)でも私がイチに正直に熱く接して、今の私と同じことを思われて敬遠されたら、私は悲しくて狂い死にしそうになり、その後ブラウスのボタンを引きちぎって怒り出すだろう。説教をしつつ、心の片隅ではこんな暑苦しい説教をする私も含めてぜんぶ愛してほしいと甘いことを考えるだろう

・「宙ぶらりんのまま返事を待たされるのがつらいんだよ。だめならだめだってはっきり言ってくれたほうがマシだ」彼がこんなに正直にぶつかってくれているのに、私は彼にイチのことなんて少しも話さずにいて、心をちっとも開いていない。彼の不安は当たっている。

・初恋の人をいまだに想っている自分が好きだった。でも今ニを目の前にしてその考えが純情どころか薄汚い気さえする。どうして好きになった人としか付き合わない。自分の純情だけ大切にして、他人の純情には無関心だなんて

波に乗るような自然な流れで恋愛が結婚に行き着くのは憧れるけど、私の恋心はもっとはっきりとした形をしていて、そんなふうに穏やかに処理できない。でも川の流れに摩耗されて石ころのかどが取れていくみたいに、いつか二とそんな関係になれたら

 

 本作は松岡茉優主演による実写映画も公開されている。ここではある台詞の意味が大きく変えられていた。

「もういい、想っている私に美がある。イチはしょせん、ひとだもの。イチなんか、勝手にふるえてろ

 タイトル回収。原作では、ニに秘密をばらされていたことを知りトイレで激昂するシーンのモノローグである。大好きだった推しイチは所詮空想の中のものにすぎず、現実のイチはヨシカの名前すら覚えていなかった。私はお呼びじゃなかった。あんたなんか、勝手にふるえてろ! イチを突き放す台詞ではあるけど、壮大な片思いの末に傷つき、勝手にふるえてから回ってるのは主人公ヨシカのほう……。

 対して映画版では、大九監督によって脚本に手が加えられ、「勝手にふるえてろ」という台詞自体が救いのあるものとなっている。ラストシーン、彼女は和解にやってきたニを玄関に追しつけて、勝手にふるえてろ、と低く囁いてキスをする。松岡の演技がとんでもなくセクシーで、カタルシスを与えてくれる。

 これをラストシーンに持ってきたところに監督のこだわりを感じる。この作品のラストは、自己陶酔の世界を破壊し、他人と自分の相互承認関係を受け入れる、社会化への挑戦である。 原作の彼女は徹底的にイチ、ニと呼びならわし他人の本名をほとんど出さない。映画版ではあだ名癖として描写され、やはり他人を本名で認識しない。ヨシカは名づけを拒否することで、自分の理想世界に現実の他人が立ち入ることを拒否していた。それが崩されるのがラストシーンだ。「霧島くん、ねえ、怒ってるの」「いや、ほっとしてる」という何気ないやり取りから、自分を取り囲むたくさんの”他人事”の一つでしかなかったニを本名で呼ぶ=ヨシカがニを自分の世界に迎え入れたことがにおわされている。

 


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 ロマンチストで内気なヨシカにとっての好意とは、10年も20年でも新鮮な愛着を持っていられる燃えるような情念で、それ以下のものはすべてゴミだ。素でこういう価値観なので、ニを振った直後は彼も同じように何度も電話をかけたり電話に出ろと脅迫的なメールを送ってきたりするだろうと想定し、連絡してこないことがわかると本気で疑問を抱いていた。

 「私のこと、処女だから好きになったんでしょ」ヨシカは愛してくれる人には相手の理想を守るために言いたいことを押さえ込んで、イチには自分の理想を押し付けて失望させられる。そのフラストレーションが爆発すると衝動のままに突拍子もないことをやり遂げて、周囲を振り回す。読者や周囲からすると「え、そこまでする?!」という突飛な行動でも、やっちゃうのだ。それが彼女の愛と感情を解放する唯一の方法だ(と本人は思い込んでいる)から。そんな不器用な彼女にとって、他人との相互理解はいかに難しいことか。

 だけど彼女が他人を 遠くのお星さま/まるきり価値のないもの、愛かゴミか、と二分して決めつけているほどには、周囲は彼女に無関心ではなかった。来留美は偽装妊娠のヨシカを気遣い、目を覚まさせた。ニは「同僚が秘密をばらしたのにいたずら心があったかもしれないけど、それも人間でしょ」と言って、ヨシカの決めつけの枠を破り、なお求めてくれた。ただヨシカを全肯定し理解のある彼くんになるでもなく、ヨシカの決めつけ通り処女だから彼女を好きになったわけでもなく、彼女を否定しながらも愛しお互いを思いやらなくちゃと諭している。

 原作ラストでの「自分の愛ではなく他人の愛を信じるのは、自分への裏切りではなく、挑戦だ。(略)私はいままでとは違う愛のかたちを受け入れることができるのか?」というモノローグ。妄想の世界に他者を受け入れることを知ったヨシカであれば、挑戦もきっとうまくやれる。暗示されているとおり、ずっと進化したやり方で愛を手にすることができると思う。