&party

眠れない夜は眠らない僕と

Lemonade#16「Lemonade」(終)

 この州にはキリスト教徒が多く、イースター近辺は当然のように連休に制定されている。十字架にかけられて死んだイエスが三日目に復活したことを祝うキリスト教徒の祭りだ。現在では宗教色は薄まり、子どもたちがイースター・バニーとともに卵の色塗りをする日としてとらえられている。上は、この休みの午前中を利用して、修了セレモニーを行うことに決めたらしい。
 寮食堂の入り口。もはや炊事の煙は遠く、賑やかさは記憶の彼方。ホールにはスツールと机がずらりと並べられて、地元紙の記者や市警のお偉方がうろついて、立ち話をしたり時折写真を撮影したりしている。そしてその様子を観察するかのように、ひとりの青年が入り口のドア枠に背をもたれて、ホールをぼんやりと観察していた。筋骨隆々とした褐色肌の肉体は鋭く引き締まり、生命の息吹を感じさせる。癖のある髪の毛はドレッドヘアにまとめられていた。ランディーだ。
 最後の任務終了から長い時間が経った。修了の日を前にして、寮全体にそわそわとした雰囲気が漂っていた。自分もその中にいないとなれば嘘になる。気に入らない話ではあるが。
「おや。開始にはまだ時間がありますよ」
 肩越しに声がかかった。そのセリフの主が誰であるか、確認するために振り向く必要もない。ファインだった。いつもと変わらず、壮麗な容姿から品格――ランディーふうに言えば、鼻持ちならない高慢ちきさ――をにじませている。見る限り、二階で元受刑者たちの荷造りを手伝ってから、階下へ降りてきたのだろう。レニーなどはプログラム期間に服やアクセサリーを買い込んでいたから荷物が膨れ上がっている。
「本当に良いのですね。刑務所に戻るという選択で」
 ファインは鋭い瞳でランディーを見据える。ただその口調には、以前の刺すような冷徹さではなく、現実を懸念するような色が感じ取れた。
 新年を迎えて春が近づく中。ランディ―は、監督役であるファインに向けて「改悛状は書かない。出所は望まない」と告げたのだった。
 参加時の動機は単純なものだった――とっとと刑務所を出たい。しかしその一言の中には、みずから手にかけた母や食人への執着も残されていた。だがしかし、半年間という長い時間を経て、その気持ちは薄れつつあった。今外に出たとこで、マジで何すんだ? やること無くなった。母への墓参り、父の行方探しもいずれはやろうと思ってはいるが、頭の片隅にある程度で、今すぐという強い衝動にかられるわけでもない。このために出所というのも何かが違う。
 ランディーは頭の後ろで腕を組み、ファインをねめつける。要するに、
「やることが無くなったんだよ。サツってのは、迷子を保護してくれるんだろ」
「同じですね」
 ファインは目を伏せた。その心中はうかがい知れない。潜入捜査を終えて思うところがあるらしい。
「私も昇進を辞退しました。本部上層への昇進を目指すのではなく、前線に立つ・現場に出る部署や立場を希望しました。どうやら私には、まだ、ここで学ぶべきことがあるようですから」
 かれは目を伏せて、埃でよれた手袋を外した。白い肌があらわになる。そしてファインは、意外にも――ゆっくりと手を差し出した。
「今日はこれを話したくて、あなたに会いに来たんです。いつか私たちの道が交わる時があるならば。――その時はまた、隣で捜査に協力してくれませんか」

 ささやかなセレモニーは上層部からの訓戒から始まった。法務局と精神科医とカウンセラーの経過観察・協議の結果、治安維持への貢献を認め、大統領直々の恩赦として更正プログラムの修了と受刑者たちの仮釈放を認める――ということを告げられる。最初から知っている話ではあるものの、改めて宣言されるとむずがゆい。ランディーたちは長ったらしいスピーチを聞き流した。視界の端でベルがあくびをかみ殺しているのが見えた。
 それが終わると、上官――リトート・フェニックスが壇上に立つ。彼は相変わらずの溌溂とした笑みをたたえ、巻舌と抑揚の強いスペイン語なまりで話し始めた。ちなみにランディーはこの男のぎらぎらと暑苦しい雰囲気を苦手としている。
「それじゃあ、まずはロウから一言頂こう! かれは厳しい指導をしながらも、いつも君たちの行く末を案じていた。さあ、巣立ちを迎えた後輩に一言、激励をくれないか?」
 リトートがスピーチを促す。ランディ―が部屋を見渡すと、相変わらずの黒づくめ、どんよりした風体の上官が隅っこに立っているのが見えた。かれは視線に気づいて、しばらく怯んでいたが、やがて一歩を踏み出した。顎から首までの引き締まったラインに、ぽつんと目立つ喉仏がこくっと蠢いた。緊張した面持ちで、ゆっくりと息をついている。なにせ『厳格な上官』としての仕事は今日が最後だ。
「ええと……今までごめんね」
 最初にこう切り出すところがいじらしい。
「君たちは今や、NA市警とニューアトランティスを背負う期待の星だ。そしてそれと同時に、君たちは僕の希望でもあった」
 ともすれば棒読みともとらえられる、感情を押し殺した硬い声での挨拶だった。それからかれはわずかに目線を上げて、目の前に立つ後輩たちを見つめた。
「これからも頑張ってね。――どうか幸運を」
 それを見届けて、最後に口を開いたのはリトート・フェニックスだった。
「さて。君たちはこのプログラムが行われた長い月日の間、様々な経験をした。地道な仕事を続けてたくさん勉強して、何度も眠って食べて運動した。表情が変わって身なりが綺麗になった。ときに気に入らない出来事に腹を立て、ときに衝突し、ときに挫折に飲み込まれ、笑うことも喜ぶこともあっただろう。よく成長した」
 みなの前に進み出る。上官はプログラムが始まった初日のように、大仰なしぐさでホールを見渡した。
「まずは、セス・ランドルフに敬意を表そう。勇敢な若者であり、立派な警官だった。彼の存在なくしてこの任務を終えることは不可能だった」
 黙禱の沈黙ののち、ワンピース姿の少女に目を向ける。スタッフに囲まれるような形でホールの隅に座っているようだ。
「つぎに元受刑者であるサイだが、彼女は都市反逆罪で連邦議会にかけられた。本来ならば重罪が科されるところだが、彼女の境遇・レツィンクから脅迫されていたこと・刑務所での態度やプログラムでの活躍を提示し、再度の収監となった」
 何やら司法取引があったらしい。彼女は顔を上げて、馴染みの警官や元受刑者たちに視線を送った。レツィンクに切り落とされた五指は、ティレシアの持ち込んだ義肢を研究した結果として綺麗な義手をはめ込まれている。
 元受刑者のうち、全員が出所を選んだわけではない。サイとランディーのほか、レナード・レイン、ギルバート・ヴァレンティノが刑務所への残留を望んだのだという。それを聞いたセオドアは、少し驚いたような顔で彼らの顔を見やった。
「それもひとつの道だろう。このプログラムはあくまで、更生の『きっかけ』にすぎず、これから先の人生こそ本番だ」とリトートは言った。
 それから出所を選んだ者に向けていくつかの報せを行った。体内にはマイクロチップが埋め込んであり、しばらくは居場所の監視がなされ、転居や出国は制限されること。身請け人の居ないものについては、就労支援など福祉サービスを案内してもらえることを伝えた。
 また新たな道を選んだのは元受刑者だけではない。ファインのように昇進希望を取り下げたり、転属希望や辞表を提出した者もいるという。
 やがてリトートがゆっくりと切り出す。
「最後のミッションを与えよう。きみたちには、友人や家族や恋人、同僚、その他大切にできる人とつながって生活を築き、健全で幸せな人生を送ってほしい。君たちの最後のミッションは、これからの人生で幸せになることだ」

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 彼はこう続けた。犯罪をしておいて幸せになるなんてとんでもないと思うかもしれない。だが人間の存在の大切さを感じることは同時に、犯した罪への自責につながる。君たちは、幸せな生活を手にしながらも、被害者は自分を許すことはないという不動の事実を背負いながら生きていかなければならない。この矛盾した感情の中で過ごすことは――君たちにとって、ひどく苦しい罰だろう。そしてこれからの人生に必要なことだ。
 そしてかれは笑みを装った。
「きょうこの日をもって、ニューアトランティス市警・更正プログラムを解散する。今後の君たちが、それぞれの人生で活躍していくことを願っている」
 それから彼は右手をビシッと突き上げて、元気よく告げた。
「さて――飯だ! ただ飯だぞ!」
「最後くらい恰好つけてくださいよ……」

 ホールは柔らかな賑わいに包まれていた。
 最後のただ飯をかっこむランディーのもとに、ふたりのメンバー――ウェンズデーとセオドアが連れ立って現れた。ランディ―はテーブルに器を置いて、何の用だと問う。
「じつは……ランディ―さんが、刑務所にのこると聞いておどろきました」
 うなだれるセオドア。
「……じつは私もまだ、自分が外に出てもいいものか迷っているんです。私にその資格があるのか……」
 不安げな顔でうつむくセオドアに、傍のウェンズデーがきっぱり告げた。
「だめだ。おまえは出てろ」
「まァ、お前らが外に出るんなら、ムショん中も風通し良くなるしな」
 ランディーは口端で笑う。まったく寂しさを感じさせない相変わらずの態度だ。
「お前も弱っちい雰囲気出す時はあるけど、いろんな知識とか教える力はあんだろ。何とかなるだろ」
「そうでしょうか……いえ、頑張ります。頑張らないといけませんね」
 セオドアは小さく微笑んだ。それから傍らの少女を見やって、
「ウェンズデーさんを養女としてお家に迎えることにしたんです。ご兄妹なんでしょう? 刑期を終えて出所されたら、ぜひいらっしゃって下さいね」
「ま、気が向いたらな」
 ランディ―は目を伏せて、笑いながら返した。

 その傍らでは、年若い青年たちが連れ立ってケーキをつまんでいる。ギルバートは、フォークでケーキを切り分けて、
「クソみたいな場所でもおまえに会えてうれしかったよ。今度はシャバでよろしくね」
「出るまで何年待たすつもりだよ。次会うときはそっちの奢りな」
 グレイがため息をついた。
「……おれさ、もう一度自分の罪と向き合いたいんだ。出会った時は外に出るのが怖かったけど、今はムショの外に待っててくれる人がいるから頑張れる。その約束もさ、覚えとくよ」
「ああ。約束」

 やがてパーティはお開きになった。記者や上層部が仕事を切り上げて、メンバーが荷造りのために部屋へ戻っていくと、食堂のホールには二人だけが残された。
 シュヒはソファに座って、宴の後始末のために床を這いまわる掃除機たちをながめている。ぱちんと指を鳴らすと相手は柔らかに微笑みながら振り向いた。
「どうしました? 何か言いたいことが?」
「はっはー! 最後にお前だろ! シュヒ・サイディズ・ロウ?」
 手を拳銃の形にして撃つ真似をすると、また子供みたいなことを、とくすくす笑われた。そんなやりとりも慣れたものだ。
「長かったな。二人で過ごした日々を忘れはしない……」
 しみじみと目を細める。
「まっとうな警官じゃないと疑ってくるアルベルトに怯えていたこと。初日に更生の度合いを試そうとリューを煽った結果、頭にけがをしたこと。ヴァレンティノたちをどうか処分しないでほしいと泣きついてきたこと……」
「もっといい感じの思い出はないんですか?」
 シュヒは半眼になった。
「あなたも手のかかる人でしたよ? 自販機の下の小銭を拾おうと血眼になってズボンから半ケツ晒してたり、ランチのメインディッシュを分けてあげたり、執務室で飼ってたぼくのペットに勝手に餌をやるから、お腹がたぷたぷになっちゃって……」
「ふむ。いい思い出だな!」
「……そうですね。もう、本当にしょうがない人……」
 シュヒはため息交じりの苦笑を浮かべ、軽くあしらうように返した。こいつ、連れて来た当初は自画自賛ネタにもきらきらした目で同意して褒めちぎってくれたものだが、最近は段々扱いが雑になってきている。
「更生プログラム第一期生、俺のバディとして、長い間協力してくれてありがとう。きみの相棒であれたことを誇りに思うよ。今日をもって、きみの更生プログラムを終了する。きみは刑務所からもNA市警からも自由の身だ。長い間世話になった」
「こちらこそ、今までほんとうにありがとうございました」
 彼は目尻をくしゃっと細めて、控えめにはにかむ。
 かれには今まで、『悪い警官』役兼チーフという役を任せていた。発破をかけたり更生の度合いを試したりする裏で無理していないか気になっていたし、シュヒが傲慢で嫌味な奴だと思われたままなのも気が引けた。せめて最後にスピーチの場を設けたものの、肝心の本人は自分の印象などべつにどうでもよさそうで、ただ純粋に後輩の巣立ちに胸を撫で下ろしている。
「さあ、みんなを見送りましょう! さよならを言わなくちゃ」
「ああ。先に行ってくれ! 俺も後で向かう」
 シュヒはとことこ出ていった。
 窓枠に背をもたれて僅かに俯いて、足元に影のさしているのを見ていた。陽の光が窓から差し込み、鍛え上げられた背中を熱している。長らく向き合ってきた仕事が今完全に終わろうとしていた。

 取調中、モニター越しにティレシアの言葉を聞いた時、思わず眉をひそめた。
 "あんたらとあたしの違いは、泥中で手を取ってくれたのが罪深い悪魔だったか神の使徒だったか、たったそれだけじゃない……。"
 自分の最も古い記憶は、罵声と共に路上に放り出されて姉と身を寄せあっていた風景だ。ホームエクイティローンの支払いが滞り、自動小銃を持った武装警官に家を差し押さえられ、蜂の巣にされかけたのだった。

 父親はフードスタンプを換金してギャンブルに使い、兄はわかりやすくグレて武装強盗なんかしている。小学校は麻薬を売り捌く狩場だったし、近所の教会の神父は少年への淫行がバレてモルディブに飛ばされた。周囲がそんなだから自然とずる賢く、欲深く、汚い手を使ってでも出世しようとする性格に育っていった。
 転機のひとつは十七年前。ティレシアが四肢を失ったテロ現場に、まだ小学生の自分も巻き込まれていた。燃え盛る瓦礫の中に閉じ込められて死を覚悟した。偶然居合わせた見知らぬ人に助けられたものの、その人は結局、避難中倒壊してきた柱から自分を庇って下敷きになってしまったのだ。
 かれの脚は真っ二つにちぎれて神経は断裂。機構都市の治療技術をもってしても後遺症が残った。だからせめて病室へ赴いて言った。
「あんたから貰ったものを返すなんて一生かかってもできない、けどせめて約束する。これからおれがあんたの足になるよ。どこへでも連れて行くから」
 けれど相手はただ、困ったように笑うだけだった。
「そんな約束は、してほしくはない」
 自分を抱きしめた、白魚のような細い左手を覚えている。冷たい指先が頬を撫で、くすぐったかった。暖かくて眩しい日差しに包まれて、ふわふわの黒髪からはいい香りがした。
「お兄ちゃんはね、君みたいな子どもになにか返して欲しいなんて思ってない。元気に生きてくれるだけでいいんだ。それでも納得いかないなら、恩返しじゃなく恩送りをしてほしい」
 冴えた黄金色の瞳が細められる。温かい農園に実るみずみずしいレモンを連想した。
「ぼくがきみを助けたように、今度はきみが他の人を助けたり守ったりして、誰かのヒーローになってあげてね。世界はそうやって繋がっているんだよ」

 慈愛の声音だった。

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 バリー・ホワイトにとってのエルヴィス・プレスリー。そんなサクラメントを経て成長し、大学へ行く金がないので警察官になった。でも、配属された分署はあまり良い環境じゃなかった。市警は治安悪化に手をこまねいていて、現場は上からの締め付けに晒され、人手不足の中で数字を上げるために杜撰な捜査や冤罪・暴力的な取り調べが増えていったらしい。らしいというのは、その時の自分は全くの新人で、内情を知る立場にはなかったからだ。
 それから数年後、刑事課に配置換えされ、とある部屋のガサ入れを命じられた。事情を聞いても答えて貰えない不可解な案件が、シュヒ・サイディズ・ロウに関する捜査だったと知ったのは、ずっと後になってからだった。

 市警と検察は、当時気鋭の教授だった彼を薬漬けにして、瀕死状態まで拷問を加えた。自白を強要し、供述や証拠を捏造し、点数稼ぎで死刑を宣告した。つまり自分は正義を執行しているつもりでぬけぬけと腐敗に加担し、その手でかれを不合理な死の床に送っていたのだ。ばかげた話だった。
 手を尽くして面会したかれは別人のようだった。思うように動かない足を引き摺り、痩せ細って、目の下にはくまが刻まれていて、窮屈だった。自責に苛まれ、再捜査や再審請求を求めても拒否をする。ちょうど人員不足と治安悪化の対策案を出せと無茶振りされていたので、『捜査協力と引き換えに仮釈放を与える更生プログラム』を売り込み、シュヒをスカウトしてプログラムを始めたのだ。
 やがて上層部にも成果が認められ、二期生を迎えることになった。柄に合わないことをやってきたと思う。自分はプログラムの発起人ではあるが、たとえば愛する人を殺した奴の更生を心から支援することはできない。むしろ明確な殺意を抱く。支援者と被害者の立場は別物だからだ。
 そんな矛盾を自覚しつつも、この半年間、後輩たちの表情や声音が確かに変わっていくのを見ていた。社会復帰まで困難は多いだろうが、よい出会いで、あやまちに満ちた人生を変えてほしい。
 あらためて顔を上げると、半年間寮としてつかわれていたホールは、しんと静まり返ってもう人の影もなかった。床の汚れや机に置いてあった料理も綺麗に掃除されて、あとは本部に返却されるのを待つのみとなっている。

 部屋に残された寂寞と沈黙が、自分たちがあゆむ道は永久に交わらないだろうということを示していた。でもそれでよかった。自分には市警を健全化して街を守るという使命がある。なにもかも思い通りにいくわけではない人生の中で、限られた時間を共に分かち合えただけで十分だ。
 ――自分の正義は、きみからもらった慈愛に似ていた。誰の特別になろうともせず、何の見返りもないのに、皆に献身と温かな祈りを捧げられるところが好きだった。きみを好きだという気持ちが、春の日差しにゆっくり溶かされて、清らかな風になる。
 感傷を打ち切る。口角を上げて微笑みを浮かべ、つとめて陽気な声音をつくった。そして、静かなホールを一人後にした。

「お兄ちゃん、もっと右! そうそう、そこにある!」
「よいしょっと……はい。捕まえた」
 指先に紐をからませる。葉や枝の合間を縫って、ひょいと引っ張ると風船は簡単に抜けた。背伸びをやめて木から体を離す。子どもたちは歓喜の声をあげてはしゃぎ、それからお礼を言って去って行った。ルイーズ・ロレンスは、そんな彼の姿を微笑ましく見つめていた。
 今日のルイーズたちは、NA市郊外にある墓地に赴いていた。短く刈りそろえられた芝生は、これからの初夏を待望するかのように燦々と明るい緑にかがやいている。真っ白な墓石がずらり立ち並ぶ隅――まだ新しい墓の下に、彼女の家族は眠っていた。
「セス。久しぶり、今日は近況報告に来たよ」
 そう言って膝を折ってしゃがみ込んだ。
「あのね――私、結婚するんだ」
 振り返る。ジョーカーは彼女の一歩後ろに立っていた。どう振舞うべきか分からない中で、せめて墓前では凛々しくあろうとしているのだろう。頑張ります、見守っててください、と緊張した面持ちでつづける。
 全ての仕事が終わって釈放されたあと、ルイーズはかれからプロポーズを受けた。返事はもちろん決まっていた。彼女はかねてからジョーカーの気持ちに気づいていたし、自分も彼と一緒に生きていきたいと考えていたから。市警では、身内に前科者がいると採用や昇進選考が不利になるため、退職して新しい生活を送る予定だ。
 とはいえ、旧友との縁が切れたわけではない。今度行う結婚式では、更生プログラムで出会った面々に招待を送っている。
「更生プログラムは無事に終わって、皆が新しい生活を始めているんだ。私だけじゃない。アルベルトは今外国に旅行にいっているし、ファインやベルは現場で頑張っているよ。クリスは今、爆弾処理に関する部署にいるけど……お店を開くために準備を進めているみたい」
 微笑んでつぶやく。返事はないけれど。
「そうそう。ギルバートは社会復帰したらセスみたいな大人になりたいって言っていたよ。微笑ましいだろう? まだ服役中だけど、いつか、ベルと一緒に尋ねに来るんじゃないかな。その時は見送ってあげてね」
 返事はないけれど、彼の声色を、考え方の細やかさを、色の白い端正な顔立ちを、今でもはっきり覚えている。目を伏せれば、家族として姉弟のように過ごした日々を思い返せる。彼はもうどこにもいないけれど、セスは大切な家族で従弟だった。声が滲みそうになるのを堪えて、刻まれた墓碑を指でなぞった。
 そのまま墓地を立ち去ろうとする。しかし、ふいにジョーカーが立ち止まった。
「……じつはオレ、ルイーズさんに、言わなきゃいけないことがあって」
 彼は浅く息を吸い込む。それから重々しく口を開いた。
「オレ、殺人罪で収監されてたけど……本当は、殺人なんか犯してなかったんです。当時リーダー格にいて、とにかく皆を守らないとと思って……。いつ言おうかずっと迷って結局ここまで言えずじまいでした」
 ルイーズは耳を疑った。立ち止まり数秒絶句する。だが、ジョーカーのあまりに真剣な様子に、彼の言葉を信じることに決めたようだった。こんな嘘をつくような青年ではないことはよく知っている。
「冤罪って……バカッ! なんでそんな……自分の人生を棒に振るような……」
 背伸びして、彼のほっぺをムニュムニュと引っ張りながら言う。戯れのはずだったのに、感情が昂って薄く涙が出てきた。
「どうして言わなかったんだ」
「えと、言ったら混乱させると思って、そしたら言う機会がなくなっちゃって……。でもね。ムショに入って良かったと思ってるんです。やっと自分と向き合える時間ができたから……」
「入ってよかったって、プログラムがあったからよかったようなものだろ。だって、無かったら終身刑だったはず。不当な罪で……。もちろん強盗は罪だけど、君はもっと君を大事にするべきだ!」
「うん、うん、ルイーズさんは優しい。すごく優しいね。ほんとうに、変わらない」
 頬をつままれながら、ジョーカーは苦笑を作ろうとする。
「オレはね、逮捕のきっかけになったのは冤罪だけど、それまでにたくさんものを盗んだし人に暴力を奮ってきたしたくさん暴言を吐いてきたんです。オレのことが怖くて誰も止められないし、オレ自身も止められなくて、ずっと野放しだった。だからいつ人を殺してもおかしくなかったんだよ。あそこで止められてよかったんだ」
 それから目を逸らして、
「更生プログラムがあったのは運が良かったけどさ。ごめんね。本当に正論だから謝ることしかできないんだ」
 ジョーカーがはにかんで笑う。だからちょっと背伸びして、彼の身体を抱き寄せてささやいた。
「約束して。私と幸せになって」
「約束する。絶対幸せになろう、ルイーズ」

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 病める時も健やかなる時もそばに居よう。私が君の幸運の女神になるから。愛しているから。
 ついばむような優しい口付けを交わした。どちらともなく唇を離して、それから手を繋いで歩き出した。ふたりの日常に帰るために。傷のある人生。けれどこの先はきっと、新しい生活が少しずつ開けていくと思うと、少し気持ちがやわらいだ。甘く爽やかな、しかし切ない心境に満ちていた。
 おはよう、ニューアトランティス。すべて世はこともなし。今なら心からそう言える。