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眠れない夜は眠らない僕と

Lemonade #12 「What's that?」

4章開幕。


 法とは現実世界の秩序への祈りだ。個々人によって倫理観は異なり、また時代や場所が変われば常識も変わる。万人の万人に対する闘争を防ぎ、社会の安寧を守るために法が存在している。
 その上で、機構都市ニューアトランティスの『法』を司る法務局は、元受刑者たちにこう宣言した。全体への奉仕。死地に向かえ。自らが壊した平和、傷つけてきた市民、ニューアトランティスの秩序に殉ぜよ。それが禁固刑と奉仕作業に代わる贖罪なのだと。
(……とは言いますけど、シュウジンサン共に更正なんかできるわけありません!)
 ミーティングから一夜が明けて。元受刑者寮の食堂では、フェニックス班のミーティングが行われていた。置かれた時計は12月26日の朝8時半をさしている。黒髪を二つ結びにした新米警官――ガティ・ジルスタは、唇を尖らせて資料とにらめっこをしていた。隣にはウェンズデーが座っている。
 現れた上官は体調を気遣う言葉をかけて皆をねぎらい、今日の仕事を割り振っていく。ベル・カイル・スタンリーたちはタイムズスクエア周辺のパトロール。ランディーは、上官たちと一緒に執務室で書類整理を手伝うように命じられていた。
「そして、きみたちには話がある」
 よく通る女の声が聞こえた。言葉ののち、赤毛の女性が部屋の前方に進み出た。ジョーカーとルイーズだ。
 ルイーズはガティと同じく、男所帯であるNAPD・更生プログラム内では珍しい女性警官だ。彼女は、先のホテル戦で殉職したセスの従姉妹だと聞いている。こんな状況にあっても仕事を投げ出さないのだ。気丈な女(ひと)だと思う。彼女は口を開いて、
「十月の初め、私達が掴んだ人身売買組織絡みの捜査に進展があった。組織の利益がレツィンクに流れて資金源になっているようなんだ。でもロウ班はタイムズスクエア戦に備えて情報収集をしなくちゃならない。だから、この件は二人に引き継ぎを頼みたい」
「任せてください! もちろんです」

 きりっとした表情を作るガティ。ガティは、(あくまでプログラムの中では)年若いということもあり、今まで単発任務を受けた回数は少ない。こうして仕事を任せてもらえるということは、信頼されているという証だろう。それが嬉しかった。
「えと……よろしくお願いします」
 隣で控えめに礼を言ってきたのは、元受刑者のジョーカー。彫りの浅い顔立ちでアジア系とわかる。
 ガティは、ジョーカーがプログラム初日に上官と揉めていたのを覚えていた。後で聞いたところアジア系への差別発言をされたということらしい。それが本当なら許し難いが――何しろ上官の行いであるし――、元受刑者――つまり『ブタ野郎』には毅然とした態度を取る方が望ましいのかもしれない。
 新人時代彼女の教官であったファインは現在、たった一人で敵地に潜入し、命を危険に晒してまで情報をあげている。今日は12月26日、ファインが知らせたテロ予定日までもう時間がなかった。そしてサイ。Treason(都市反逆罪)、世界の警察たるアメリカでさえ恐れられ、慎重に使われている単語だ。上層部ではもはやサイが「良いか悪いか」ではなく、「正気か狂気か」という議論をしている。そんな状況だからこそ、頑張らなければ。
 送られた資料ファイルを開いた。組織の拠点は、ニューアトランティスの街外れ、黒人や不法移民が住む法の目の届かない貧困地域。いわゆるスラム街だ。留学生や貧困地域の子供、孤児など、『誘拐しても足のつかない子供』『世間から注目されない子供』をターゲットにして中国に売り払っていたようだ。しかし、多くの誘拐被害者が出ている大掛かりな案件がなぜ、こんな『地雷案件の最終処理場』に流れてくるのだろう。ガティは首を傾げた。

「あれは何だ」
「TV塔です」
「あれは」
「ドーナツのワゴン販売ですね。今は急いでいるので寄りませんよ」
 セントラルパークを抜けて、任務に向かった先はアップタウンの貧民街。道を行き交う人々の表情は虚ろで、生気に欠けていた。彼らは前科者ばかり。法の目の届かない墓場、それがこの区域の正体であった。
 若い女が歩くのははばかられるような道だが、二人が選ばれたのには理由があるはずだ。それに、バディであるウェンズデーはスラム街出身の元殺し屋。彼女にとっては庭だ。
 大まかな地図を見せるだけで、ウェンズデーはずんずん先導して歩いていく。
「その建物なら、わかる。こっちだ」
 雑草が伸び放題のうらぶれた路地には、ホームレスらしい人々が折り重なって寝そべっている。NAの冬で野宿なんて自殺行為だ。なんとはなしに同情の言葉が口をついて出た。
「可哀想ですね。助けてあげたいです」
 前を歩いていたウェンズデーがふと歩みを止める。そして肩越しに振り返って、鋭く硬い口調で問うた。
「可哀想って、なんだ」
「えっ? その人は悪くないのに不自由な状況にあるのが、不憫だから……? えっと、同じ街で暮らしているのに、あまりにも酷というか……」
 突然の問いに困惑していると、ウェンズデーは畳み掛けてきた。
「それならわたしも、可哀想だったのか」
「あ……違っ」
 ガティは固まった。スラム街に生きる人間は可哀想で苦労している――ウェンズデーの前なのに、何も考えずに迂闊な発言をしてしまった。
「……すいません、警官として言葉選びが軽率でした」
 形ばかりの謝罪はしたものの、自分の偏見そのものを訂正することはなかった。ウェンズデーもそれ以上問い詰めることはせず、二人で路地の奥へと進む。何となく気まずい。
 やがてふたりは、ある建物の前で立ち止まった。
「99番街ビル……ここの地下ですね」
 ガティは建物を見上げる。緊張していた。公的書類にはビルと登記されているものの、目の前にあるのはどう見てもバラック小屋に建て増しを重ねた違法建築物の成れの果てである。床には砂ぼこりが積もり、空気中にはすえた臭いが漂う。
「ここか」
 ウェンズデーがずんずんと進んでいくのでガティはその背中を追った。
あっちょっと待ってください、今日は聞き込みだけだって……」
 中は惨憺たる廃墟だった。資料通り防塵マスクなどは必要ないだろう。階段で地下に下りると鉄格子で囲まれた広い空間があった――そこは牢屋として使われているらしかった。中には様々な身なりの子供が収容されていた。ざっと数えて三十四名。全員が二十歳にも満たない少年少女だ。彼らは一様に疲れ切った顔をしているものの、どこか落ち着かないような不安を抱えている様子もあった。
「おい。ここから出るぞ」
 ウェンズデーが無遠慮に子供たちに声をかけるが、返事はない。代わりに、土色の肌をしたやせ細った男児が歩み寄ってきて、鉄格子越しに声をかけてきた。耳慣れぬ発音。英語ではない。そこへ来てガティは鉄格子の中を見渡し、やがて心の底から嫌悪感が湧いてくるのを感じた。
 ここにいる子はざっと見てアジア系、メキシコ系、黒人、ムスリム――皆有色人種だった。白人は数える程しかいないが彼らも英語が堪能ではないらしい。マスコミやNAPDがこの案件に注力しないのは、被害者の子供たちが裕福でも美しくもなく、英語話者ではなく、白人でもないから。つまるところ『世間から注目されない子供』だからなのだ。
 男児の顔を覗き込む。虚ろな瞳は目の前の二人を通り越して、別の誰かに語りかけているようだった。背筋がぞくりと寒くなった。
 呆然と立ち尽くしていると、階段を降りる足音が続き、地下全体に怒号が響く。続いて、足音も慌ただしく駆け抜けていく気配がある。状況を理解しようと思考を整理している間もなかった。すぐに新たな動きが始まる。ガティたちのいる地下牢獄に二人の男が入ってきたのだ。
 ガティとウェンズデーは物陰に身を潜め、そっと姿をうかがう。一人は白人の男、もう一人は東洋系の男だ。一見すると普通のビジネスマンだけれど、このスラム街に身なりの良い『普通のビジネスマン』が足を踏み入れるわけがない。恐らく白人の男がこの拠点の主で、もう一人は買い付けに来た中国人だろう。白人の方の手には拳銃が握られている。黒塗りのリボルバーだ。
 白人のほうがぐるりと辺りを見回した。
「おい、誰かいるのか」
 とドイツ訛りの英語で呼びかけた。懐中電灯で物陰を照らしたあと、狙いをつけたのかこっちに寄ってくる。
 脱出できそうな気配はない。まずい。ガティが内心焦りを感じている一方で、隣の相棒は全く動じた様子がなかった。まるで日常の延長線上にあるかのように平静だった。彼女は声を潜めて言う。
「わたしが注意を引くからその間に逃げろ」
「待ってください! 一人で囮なんて危険すぎます。せめてワタシも連れて行ってください。二人で行けば二対二、人数で勝てなくても有利です」
「だめだ。おまえは足手まといになる」
 冷ややかな台詞にガティは言い返すことができなかった。
 男がこっちにやって来る。ガティは何か声を上げようとした。しかし――口を開く前にウェンズデーは既に行動に移っていた。
 ドン! 重く銃弾の音が響く。薬莢がカランと転がる音。男は振り返って、ウェンズデーに向かって撃ってくる。ウェンズデーは素早く避けた――ガティが呆気に取られている内に彼女は男の目の前にいた。速い! 白人の男は正確に腕を撃たれてリボルバーを取り落とした。
(凄い速さだ。まるで閃光みたいだった……あれが、アナタの能力なんですか?)
 そうこうしているうちにウェンズデーが東洋人の男の顔面目掛けて蹴りを叩きこむ。男は後ろによろめく。その隙に彼女はガティに目配せして走り出した。
「ま、待ってください! まだ中には子供たちがいるんですよ!?」
「おまえ、死にたいのか」
 唇を噛み締める。ウェンズデーの言うことはもっともだ。彼らを解放する鍵の在り処も分からない。人身売買組織はひとりふたりではないだろうし、あそこに留まり続けていたら、異変に気づいて応援がやってきていたかもしれない。
 彼女は真っ暗な瞳でガティを見つめていた。
「それに。おまえ、さっきからずっと手が震えてた。そんなやつはまともに動けない」

 

 命からがら本部に帰還したガティは、やがて上官に呼び出された。今日、銃撃戦になったのか? ロレンスからの資料では、周辺の聞き込みで裏取りをするようにとあったと思うが。マジで何してんの?
「……書いてある通りなんです」
 報告書に目を通しながらの問いに、ガティは苦々しげに応えた。捜査予定を立てるためにも事情を聞きたいというだけだろう。だが、こんなにつぶさに聞かれるのは、自分が過去謹慎処分を受けたからだと思うのは考えすぎだろうか。
 上官は、感情の読み取れない目でガティの身なりをじっと観察していたものの、それ以上詮索することは無かった。疲れたろう、今日はもう休めとだけ言って笑顔で彼女を送り出した。
 ガティがウェンズデーを寮に送り届けるとすでに炊事が始まっていた。タイムズスクエア組やロウ班の面々も活動が終わったらしく、夕食の用意を手伝っている。相棒は食べものの匂いに惹かれてか早々にキッチンへ向かってしまった。
 こっちの気も知らないで……。食堂の隅のソファに身を預けながら、炊事の様子を眺めている。足がむくんでいたし全身が重い。そこへ低い男の声がかかった。
「よー、やってんなぁ」
 座ったまま目をやる。眼前に立っていたのは、暗い色の肌にドレッドヘアー、強面に口輪――ランディー・パーカーだった。悪人だけを狙った食人行為で、一部からはダークヒーローと崇められていた犯罪者。彼のバディ相手はレツィンクに潜入中であるため、直近は上官たちに資料整理ばかり言いつけられていたはずだ。
「……何の用ですか」
 怪訝な顔で見上げる。するとランディーは口端を歪めて、
「笑っちまったぜ。いつもいつもうるせェ正義の味方サマご本人が、『正義の皮被った悪人』なんだからなァ」
 その言葉に体が強ばる。何の話です。震える声で問うと、彼は口輪越しにあの性格の悪そうな笑みを見せた。
「オレは、お前が謹慎処分食らってた理由を知ってる」
 固まって何も返せないガティを前に、ランディーは朗々と話す。
 ランディーは、きょうの書類仕事で肢体不自由なシュヒと二人きりになった隙に、彼の目を盗んで、何か面白いことはないかとプログラム関連の資料を読み漁っていたのだ。そこで鼻持ちならないチビ警官を虐められそうな、面白いネタを見つけた。謹慎処分。

 アジア系に生まれたガティ・ジルスタは、英語が流暢ではなく、プライマリースクール時代に軽いいじめにあっていた。行為そのものは大人の介入ですぐに収まったものの、ガティはいじめを受けて泣く自分の弱さが許せなかった。ワタシは弱かった! ガティは自分を虐めた同級生を始め、悪党や犯罪者を敵視し、やがて警察官を目指した。
 しかし書類の中のガティはこうだ。二十歳のある日。新人警官だったガティは、往来で無計画に暴れている男を確保することになる。男と対峙した彼女は、一瞬だけ油断した。この人は本当に、手枷をかけるべき悪い人なんだろうか? そう考えた隙に拳銃を手にした右手を呆気なく掴まれてしまう。微々たる力だったが彼女は動揺した。そして手に力を込めすぎてしまい――発砲した。
 銃の出る幕じゃなかっただろう、何を考えていたんだ。軽率な発砲が咎められ、ガティは謹慎を命じられる。ワタシは馬鹿だった! あの時、男に対してちょびっとでも同情したから、余計に事態を悪化させたのだ。もう彼らを同じ人間として見るのはやめよう、そうすればもう間違えない。
 虐められる自分も、犯罪者にうっかり情けをかけて判断を見誤る自分ももういない! ……でも、ワタシの根本は何も変わってない。身勝手な『正義』を振りかざして、元受刑者達を罵倒して、強くなった気でいるだけだって、そんなのワタシが一番分かっている。

 ランディーは低く囁いた。
「お前が保身のために銃を撃つことと、オレが自分の目的のためにナイフを振るうこと、何が違うんだ? 自分のためにやったんだろ? 何でお前が正義でオレが悪なんだ? オレだって悪人を狙ってやってんのに、何が違う?」
 普段の粗野な言動とは裏腹に、ランディーの態度は至極落ち着き払っていた。対照的に、ガティの足はがくがくと震えて無意識に逃げようとしている。息が詰まって返答の言葉が出てこなかった。
「そ、れは……ちが……ワタシは、同じなんかじゃ……」
 何とか自分を正当化しようとしても、自分の考え全てが薄っぺらく感じて言葉が出なかった。青ざめた頬に冷や汗が伝った。
「……あのさあ」
 そこへ軽快な声がかかった。振り向いてみれば、グレイが傍に立って暇そうに菓子を食っている。彼は顎をしゃくって、
「あっちでさあ、アンデッドとギルとポーカーやってんだけど、メンバー一人足んないんだよね。ウェンズデーはポーカーのルール理解してくれないし、ランディー来てよ」
「あ?」
「来週のランチのデザート賭けて、勝った奴は総取り。ここで警官構うより楽しいと思うけど」
「……ハッ。まァそれにしても、正義の皮被った悪人ってのはひどく不味そうだな。ランチのデザートのほうがまだうまそうだ」
 ランディーは打って変わって機嫌良い笑みを浮かべた。
「良いなァ、お前。ずっとそのままでいろよ」
 黒褐色の大きな手が近づく。頭を撫でられそうになって、慌てて手をはらいのけた。
「ワタシはッ! アナタとは違う! 外道で、罪の意識の欠片もない犯罪者とは……!」
 ようやく出た声はひどく震えていた。わかっている、これは感情論にすぎない。ランディーは気圧された様子もなく、それどころか必死なガティを鼻で笑って踵を返した。
 グレイの方はしばし二人の様子を伺っていたが、やがて『ぼくがあいつから庇ってやったんだぞ! 感謝しろ!』といわんばかりの得意げなドヤ顔スマイルを見せて、ランディーと共に去っていった。ガティはその背中を睨みつける。何、あの態度。ワタシは犯罪者に責め立てられ、犯罪者に庇われる程度のダメ警察官だとでも言いたいのだろうか。
 副チーフが不在なのをいいことに、なぜかグレイはひたすらガティにちょっかいをかけてくるのだ。彼女の心中は複雑だった。

 立ち上がってテーブルに向かうと、ちょうどカイル、スタンリー、ベル、それにギルバートが夕食をとっていた。がてぃこちゃんも一緒にどう? と勧められ、断りきれずに席に着く。
 今日のメニューはチキンオーバーライス。プラスチックのボウルに、ターメリックで炒められたライスが盛り付けられ、スパイスで味付けられたチキンがうっすら湯気を立てる。その上に盛り付けられた新鮮なレタスとトマト、玉ねぎがてらてらと光っていた。スプーンでライスをすくいとる。肉厚のチキンをかみ切った瞬間、じゅわっと肉汁が噴き出して、クミンとニンニクの強烈な風味が舌を刺激する。チキンのこってりした風味。レタスやレモン汁入りホワイトソースの爽快な風味。二つの対照的な味つけが、口の中で強いコントラストを演出していた。美味しい。
「っていうかさっき話してたのグレイでしょ? ほんと、素直になればいいのになあ。バレバレだもんね、グレイはガティのことが好k」
「なぁ、おまえ、それ言わない方がいいんじゃねぇか」
 警官仲間が漏らした言葉を、隣の青年が制する。発言の主ははっと顔色を変えて、
「好、す……スシ! そう、グレイはガティのことをスシLove仲間だと思ってるんだよね〜……?」
「誤魔化しきれてねぇよ」
 気まずくなったらしい彼は視線を左右にさ迷わせて、ぎこちない笑いを張り付け、立ち上がって去って行った。
「ぐ、グレイ〜! 俺もポーカーに入れて〜!」
「何なんですか一体……」
 釈然とせずに夕食をとっていると、シャワーを浴びてきたらしいウェンズデーがじっとこちらの表情を窺っていた。また食事を奪われるのではないかと思い、ボウルを抱き寄せる。
「あげませんからね!」
 だがウェンズデーは眉一つ動かさなかった。無言のままキッチンに赴き、冷蔵庫を開けて、しばらく何やらごちゃごちゃやっていると思ったらカップをもってこっちにやってきた。中では牛乳が湯気を立てている。
「ミルク」
「はあ……? え……?」
「ミルクを入れていたから」
「は? だからなんなんですか?」
 首を傾げた。ミルクを入れてたからなんなんだ? それともウェンズデーは、スパイスたっぷりのチキンオーバーライスにミルクが合うとでも思ってるのだろうか。
「いらないのか」
 ウェンズデーはそういうと、せっかくいれたミルクを自分で飲み干した。本当に意味が分からない。元受刑者の青年はそんな二人を笑顔で見つめながら、
「前おれ落ち込んでた時、サイちゃんがホットミルク入れて慰めてくれたことあったんだよね。デーちゃんはあ、それ見かけたかして真似して、がてぃこちゃんに元気出してもらおうとしたんだよねー?」
「……?」
「……都合の良い考え方ですね。それにシュウジンサンからの慰めなんて必要ありません」
 目を伏せて渋い表情を作るガティと、自分の感情がいまいち理解できていないようなウェンズデー。元受刑者はそれをいとおしそうに眺めて、彼女におかずを餌付けしている。
 近くに座っていた面々はやがて食事を終え、食べ終わったボウルとスプーンを食洗器に放り込んだ。残されたのはベルとガティだけになり、気まずい雰囲気に包まれる。顔を上げまいとして、一人でチキンオーバーライスをかっこんだ。
「……今日、上司に呼び出されてただろ。何かあったのかよ」
「アナタには関係ないでしょう」
 再び沈黙。
 ――ベル=ソニアとガティ・ジルスタは、新人時代最も仲の良い友人だった。気だるそうで楽を選ぼうとする彼だったが、むしろその性格がガティの難儀な性分を解いた。虐めの経験こそ話さなかったものの、ベルと共に高め合う中で本来の泣き虫な自分を許せるようになっていた。そして謹慎処分になった時、周囲に責められるガティをベルだけは肯定してくれた。けれど自分が許せなかったガティは、ベルのことさえも突き放してしまったのだ。
 タイムズスクエア戦について言及された、昨夜のミーティングの後。死の危険を前にして、ベルはガティと和解を試みたようだった。
『おれらが警察官になって2年くらいだろ。それでおれ、この間はじめて死ぬギリッギリまでいって……その時、おまえの顔が浮かんだんだ。ガティ、おれは、このままなのは嫌だよ』
『いつ死ぬかなんてわからないだろ……ッ! セスさんだって死んだ、他人事じゃない……』
ガティはまた突き放した。アナタのことなんて嫌い。それでもベルは必死に訴えかけた。
『なにを心配してんのか知らないけど、おまえのことはおれが守る! だからそれでいいだろ! なあ、おれに嘘つくな、くだらない意地張ってないでこっち向けよ!』
 守る、という言葉に自分が揺らいだ。彼女の知っているベルは無気力で、諦めを知っている目をしていて、それでも泣き虫な自分なんかよりも立派な警官だった。
 仲良くする訳にはいかない。ベルと共に過ごした時間はガティの中では過去の甘えた自分の象徴だから。アナタに守られたり縋ったりしないといけないような、弱くてバカなガティ・ジルスタはもういない!
(……こんなこと、考えたくありません。それもこれも、こうやって二人でご飯を食べている状況が悪いんです)
 ガティは早急に食事を終えてボウルを片付け、元受刑者寮をあとにした。背中にかけられた、また明日な、というベルの言葉にも返事はしなかった。

 帰宅したガティは、軽くシャワーを浴びてベッドに横たわった。錘がつけられたかのように体全体がずっしりと重く、足は棒のようだ。ただそれよりも、成果を上げるどころかまともに仕事ができていなかったことへのくやしさが胸を覆っていた。
 むくんだ足を伸ばして枕にしがみつく。眠りたくなかった。けれど後頭部が熱を持って意識がおぼつかない。自然に瞼が落ちてきた。
 ――ガティはたまに、悪趣味な明晰夢を見る。『夢』の世界の彼女は純真な表情で、かつての友ベルと肩を並べて談笑していた。二人の背中を見て、現実のガティは悪態をつくのだ。
(暢気で何も考えてなさそう。そんなんだから判断を誤るんです。警官なんて名乗るなよ。こんな奴を肯定したアイツも! ワタシは! アナタとは違――)
 そこでガティはびくりと動きを止めた。『夢』が振り向いてこちらに笑いかけてきたのだ。だからガティは、『夢』にむけて、勢いよくナイフを突き下ろした。割れた鏡のように『夢』の顔が苦痛に歪み、血しぶきをあげてくずおれる。自分の頬に返り血がかかるが気にもとめず、何度も何度も刃を振り下ろした。
 だってワタシは『成長しないといけない』!!『変わらないといけないんだ』!!
 今彼女の心によぎる変わりたいという感情は、過去の自分を完膚なきまでに殺したいという痛烈な自己否定と強迫観念のあらわれ。殺さなきゃ。過去の馬鹿なワタシを、殺さなきゃ――!
 夢はそこで終わる。ガティは真っ暗な部屋の中で目覚めるのだ。
 額に手をやると、冷や汗でわずかに濡れていた。上半身を起こし、体育座りの形になって膝に頭を埋める。
 不意にウェンズデーの台詞が脳裏をよぎった――わたし、知らない。何が良くて、何が悪い、だとか。だから、知りたい。……あんたが、教えてくれるんだろ。
「……何が悪くて、何が善いか? 正義とはなにか。そんなの、ワタシに答えられるわけないじゃないですか。その問いに胸を張って答えられる立派な警官だったなら、謹慎処分になんかなっていない。こんなとこにも……来なかった……!」
 暗い部屋の中で独り言を漏らした。正義とは、悪とは何だ? 誰かにとっての善は他方から見れば悪かもしれないのに。
 不甲斐ない。ワタシはいつも自分自身の価値観に傷つけられ、縛られ叱られている。正しくなくては、という思い込みが自分を縛っている。正しさが何かも答えられないのに。

 翌日。ガティとウェンズデーの失態のせいか、はたまた誘拐被害者の子供たちが発見されて緊急性が高いと判断されたからか、あの拠点については所轄の分署に移管されたらしい。
 代わりに二人に回された仕事は彼らの根っこから資料を持ち出すことだった。礼状を渡された時に、今回は証拠人の確保よりも確実な物的証拠を優先しろ、危険は避けろ、先走るなと念を押された。過去の謹慎、昨日の失敗。ガティが次失敗したら間違いなく懲戒だ。それはウェンズデーの評価にも響くのだろうか? とにかく今回の任務は無事に終えなければ。
 提示された住所はマンハッタンの端の端のスラム。本部のお偉方の目が届かないのも納得出来る。車窓からのぞく風景が高速で通り過ぎるのを見ていた。
「ここが拠点ですか。本当に汚いですね」
 ヴァニタスが事前に解錠してくれていたようで、拠点の扉はなんなく開いた。二人はいくつかの金庫や資料を運び込む。最後の書類の中から、はらりと一枚の資料が抜け落ちる。拾おうとして、資料の中のある写真に目が吸い寄せられた。それはランディー・パーカーの写真だった。ただ、プログラムで出会った彼よりずっと若い。サイが流出させた写真ではないだろう。その隣には見覚えのある黒人の少女の写真。
「……これは……」
 硬い声が漏れた瞬間、ウェンズデーがぼそりと呟いた。
「……ん。人」
 はっとして振り向くと、昨日見かけた東洋人の男が血相を変えてこちらに向かってきていた。ふたりは急いで車に飛び乗ってエンジンをかける。危険は避けろと念を押されているのだ。
「もっと早くしろ」
「アクセル踏んでます!」
 ウェンズデーが後ろを伺いながら言う。後ろから東洋人の乗った黒い車が追いかけてきていた。ここはマンハッタンの端の端。本部や所轄はもうずっと遠い。
 エンジンを唸らせながら、二台の車が道路を滑る。目の前にカーブがあらわれ、車は悲鳴のような音をあげながらドリフト。次の瞬間車体が大きく揺れた。コンマ数秒遅れて破裂音。発砲され、車のドアに傷がついたようだ。
「後ろ!」
「わかってますッ!」
 センターラインを越えて追ってくる。二人は助手席と運転席でそれぞれ後方を見やった。後方の車がさらにスピードを上げて2人に追いついた。向かい合う窓が開き、男が銃を構える。
「ッ!!」
 ガティの視界がぐらりと揺れる。車の天井が見えた。ウェンズデーに首根っこを掴まれてシートに叩きつけられたのだ。顔をあげれば……彼女の顔面からは血が噴き出していた。
「……な……」
 慌てて抱き寄せて、もう片方の手でハンドルを握る。
 ――あの時のホットミルク、飲んであげればよかったな。腕の中で荒い息をするウェンズデーを見て、胸が締め付けられる。守りたいと思った。
 かつて公園で子供を助けようとした時のように、ガティはほとんど本能で動いていた。懐からエルロッド20を構えた。安全装置なんかいらない。窓から見える車に狙いを定めて……手をかけて……撃ち抜く!
 反動で体が揺れると同時に、併走していた車の動きが鈍くなった。数秒を置いて車が停止し、沈黙と焦げ臭い匂いの後、大きな音を上げて爆発した。彼女は運転手を撃ったのではない。車の機構を撃ち抜いたのだった。

 ガティは彼女の怪我の応急手当をして、本部に連絡し、指示通り車を出発させた。
 流石元殺し屋だけあって、ウェンズデーは大量の血を見ても顔色ひとつ変えていなかった。顔というのは多くの血管や神経が密集しているため、ほんのかすり傷でも酷い怪我に見えることがある。
 『正義』とはきっと、ガティが憧れていたような、完全無欠の超人が暴力をもって巨悪を殺すことじゃない。脆さを併せ持った普通の人間が、困っている人や窮地に陥った弱者を助ける行為の中に正義はある。それはどんなに国や思想が変わっても「正しいこと」だから。
 虐められていた頃からたくさん勉強して、英語も流暢になった。発音もまだ完璧じゃあないけど、もう何も話せないガティじゃない。
「知っていますか? 英語にこんな諺があるんです。『When life gives you lemons, make lemonade』、人生に辛いことがあってもそれをチャンスに活かせって意味です」

「……ん。知らなかった」
「……ミルク、ありがとうございました。本部に帰ったら、今度は二人で温かいレモネードを飲みましょう……」
 ウェンズデーに肩を貸して、足を引き摺りながら、ふたりは帰路へとついた。
 今のワタシが他人のことを認めて、許してあげられるように。完璧じゃないワタシ自身が歩んできた不完全な道のりのことも認めて、愛してあげたい。
「ウェンズデーサンがしてくれたみたいに……困っている誰かに手を差し伸べるのが、『良い事』なんだと思います。力を自分のために奮うかどうか、悪ってその違いです。……まだまだ分からないことばかりですが、ワタシたちにとっての『良い事』を、一緒に見つけにいきませんか」

 ウェンズデーは右目をけがしていた。NAの医療にかかれば完治可能らしいが、しばらくは眼帯に隻眼で過ごさなければならないらしい。片目のみの視界にはまだ慣れぬようで、たまにふらふらと歩いては壁にぶつかって、セオドアに心配されている。
 ガティとウェンズデーが医務室から帰ると、寮では既に昼食が始まっていた。彼女はずんずん歩いて、骨付きチキンを掻っ込む男の前に座る。男……ランディーは、鬱陶しそうに顔を上げた。ウェンズデーは口を開く。
「『かぞく』って、なんだ」
「あ?」
人身売買組織の資料、そして健康診断の結果によって……ランディー・パーカーとウェンズデーは、幼い頃に生き別れた実の兄妹であったことが分かったのだった。
 家族。ウェンズデーにとっては、先日セオドアに誘いを受けてからずっと気になっていた言葉だ。家族として暮らそうと言ってくれた人が現れた後で、血を分けた兄が現れて混乱している。答えが欲しかった。
 当のランディーは返答に詰まったようだった。鋭い目付きが一瞬緩んで、瞳に寂寞と切なさを湛える。しかし憂いの色はすぐに掻き消えて、またいつものふてぶてしい調子に戻った。
「……知らねェな。別に好きに生きりゃいいんじゃねえの。あとウェンズデー、オレが兄だってんならこれからはオレの命令に従えよ」
「いやだ。くたばれ」
「だそうですよ?『お兄ちゃん』サン」
「あ? お前らなァ……」
 他愛もない喧々諤々。ガティはしばらく二人のやり取りを興味深く見つめていたが、やがて立ち上がった。話さなければならない人がいる。
 向かったのは喫煙所だった。人気のないブースの中では、見慣れた顔が煙草をふかしている。彼女が喫煙所のガラスを叩くと、『彼』が振り向いた。
「……ベルサン……ううん、ベル。ちょっと、話したいことがあるんだ」
 彼は吸殻を始末して、ブースの外に出てきてくれた。長身からふわっとたばこの残り香が香った。ベルからはいつも、コーヒーだのたばこだの、ほろ苦い匂いがする。同期として毎日一緒にいた時は気にもならなかったことを、今になって改めて意識してしまう。
「……なんだよ」
 あんな風に突き放してしまった直後なのに、彼の表情は心配そうだった。
「……今まで、 本当にごめん。ワタシは、話したいことがたくさんあって……」
「なあ」
 ベルに遮られた。
「大事な話があるんだろ。立ち話じゃなくて、飯でも一緒に食べながら話そう。おれ、お腹ぺこぺこなんだよ。ガティは何が食べたい?」
 今までの断絶を感じさせないような寛容な笑顔は、思い出の中の無気力なベルと違いすぎて、思わずくすりと笑ってしまった。
「あ、おい。なんだよ、笑うなよ」
 彼が屈託なく微笑むので、それにつられてよけい噴き出したくなった。
 ベルとスポッチャに行きたい。ダイナーでハンバーグ食べたい。失った時間を埋め合わせるように、あてもなく散歩して、くだらないことを話していたい。

 やがてガティは、持ち出した資料によって人身売買組織が壊滅したことを知った。来たるニューイヤーズ・イブに改めて覚悟を決める。きっと誰も死なせずに迎えたい。
 ワタシは正義の味方だ。そしてワタシの正義は、ニューアトランティスの平和と市民を守ること。
「さあ! ニューアトランティスの平和を守っていきましょう!」