告げる僕
文化祭の準備を終え、彼は夕日を浴びながら帰路についていた。
自転車小屋の前で、『彼』は三つ編みの幼馴染の姿を見つけた。彼女が自分を見つけて駆け寄って来るのを見て、彼はうんざりと声を上げる。
「何だよ美保、お迎えかァ? 小学生じゃねぇんだ。とっとと一人で帰りやがれ」
しかし、美保は何やら思いつめたような顔で彼を睨んでいた。少しだけ怯えて、『彼』はおずおずと、
「ンだよ、……その顔」
「ねえ。今日も谷崎くんを殴ったとか聞いたんだけど、どうなってるの? あんた達、グルになって私に何か隠してることない?」
「あったとしても、手前には関係ねぇだろ」
内心びくびくしながらも、彼ははっきりと口にした。
夕日によって逆光の位置に立つ彼女の顔はよく見えない。ただ、いつものような快活な笑みでないことは分かった。
「私、谷崎くんと女の子が廃棄物倉庫で話してるの見ちゃったんだ。あんた、あの山によく通ってたよね。最初は、あんたの好きな子を弔ってるのかと思ったけど、違うんだよね」
美保は顔を上げた。
「あんた、なんてことしてるの。いくら恋人だからって女の子をあんなところに閉じ込めて。心配してる家族の方も居るし、その子の記憶が事故解決の手がかりになるかもしれないのに。何よりその子、病気なんでしょ。あんな不衛生な倉庫にほったらかしておいて」
「違ぇよ……」
彼は必死に釈明しようとするが、うまく言葉が出てこない。そう、と美保が呟いた。
「文島希さん、生きてたんだね?」
美保の咎めるような目線が刺してくる。彼はまるで心を串刺しにされたような気がした。遠くで、獣のような鳴き声が聞こえた。[newpage]
僅かに腫れた目を、再度拭った。くしゃくしゃのままハンカチをポケットにしまう。深呼吸ののち、診察台の上で読書にいそしむ彼女に声をかける。
「僕は少し外へ出てくる」
「どこへ行くの。私も行くわ」
文島さんは本を閉じて切り返す。僕は身支度をしながら、
「療養所の焼け跡だ。ここからは少し山道を歩くけど、君は歩けるか」
文島さんの細い足を眺める。ずっと寝たきりだったせいで、ろくに筋肉はついておらず、血管が浮くほどに白い。長くは歩けないだろう。それでも彼女は意地からか、行ける! と軽やかに即答した。
絶対にへばるなよ、と何度も念を押すと、文島さんはきょとんとした。
外は夕暮れが始まっていた。
僕達は音を立てて下草を掻き分けた。虫が多いからと事前に言ったが、文島さんはいちいち悲鳴を上げて面倒臭い。目立つから黙れと言っても彼女がきかないので、最終的には僕が彼女をおぶうようにして歩いていった。
そして黒く焦げ付いた板を踏みつけて、あの場所へたどり着いた。彼女を振り落とし、地面に崩れ落ちた。がくがくする足をさすりながらうめく。
「重いんだよー、君はーっ!歩けないなら来るなって言ったろう?」
「歩けるわよ!ただちょっと……こわかっただけだもん……」
「そういうのは彼氏の前でやるこった」
僕はやれやれと肩を落とす。文島さんは拗ねてしかめっ面をしていたが、絞り出すように謝った。それから顔を上げ、辺りを見回す。
療養所跡。
まだテープが張り巡らせてあり、花やお菓子などがぽつぽつと備えられている。文島さんはしゃがみこみ、置いてある菓子を物欲しそうに見た。僕が非難の色を込めて、
「うわぁ、何してるんだよ」
「ここで死んだ人達、どうせ皆食事制限かかってるから、お菓子なんて食べられないわよね」
そう言えばそうだな。文島さんの頭の一際跳ね返った髪をゆるくつまんで、
「食べたいのか?」
「いらないわよ、太るもの。あと、いたい」
文島さんは僕の手を邪魔そうに払って、目に見えて膨れた。そして、
「久しぶりだわ。……こんなになって」
文島さんは砂利をそっと撫でた。様々な思いが、彼女の中で巡っているらしかった。そしてふいに僕を見上げる。
「ねえ、ここに来て何をするつもりなの」
「ざんげ」
ひんやりとした風が吹き抜けた。彼女の後ろ髪が広がり、勢いよく空気を叩いた。
文島さんは『彼』を望み、そして望まれた。
彼が言ったとおり、どう僕が償ったとしても、もう亡くなった人は帰ってこない。しかし、事件のことを黙殺すれば、たった一人の生き残りである彼女の切実な夢が叶うのだ。それならば、黙っていてあげたいと思うのだ。
死んだ者より、生きている者を。そう考えてしまう僕を、どうか見逃してほしい。
「ごめんなさい」
僕は深く頭を下げた。もう地面しか見えないくらい限界まで身を折る。
「貴方達を、心の底から、悼みます……そして、僕の過ちを謝ります」
文島さんは、そんな僕をただじっと見つめていた。
彼女も、僕の大きな過ちの犠牲者の一人である。
[newpage]
「ここに墓標を作りたいな」
「私たちじゃ非力で無理でしょうね」
「そんなことないよ。時間がかかっても構わないなら」
文島さんの傍らに座って、彼女に呟いた。
お父さん。
その響きがどうにももどかしい。ぼくは父と、きちんと向き合えていただろうか。
僕は隣にしゃがむ文島さんを見た。
「まだ、完全にきみや父を受け入れるのは難しいかもしれない」
「いいのよ。人間、価値観ががらっと変わるのって、案外耐えきれないものだもの」
文島さんは地面を見たままぼそっと言った。
いままで単純だったと話す彼女は、『彼』によって多面体とやらになったのだろう。
僕は大人になる事を恐れ、愛情を拒否していた。だから、似たもの同士である彼女の変化を恐れたのだ。
「そう言えばあなた、その怪我はどうしたのよ」
「あいつと喧嘩した」
「また?男の子って懲りないわね」
文島さんは芝居がかったしぐさで肩をすくめた。僕はガーゼをさすっていたが、それに合わせて派手なため息をついてみる。
「男子全体っていうよりか、僕達の溝がかなり深いんだよ。あいつ、僕に相当いらいらしてやがる」
「ふうん。あの子、ストレスはちゃんと発散してるみたいだし、私から言うことはないわ」
「僕はサンドバッグじゃない」
文島さんは失笑した。僕は立ち上がり、ズボンの泥を払う。
「そろそろ帰ろう。日が暮れる」
言ってから気づいた。文島さんが『帰る』のは、あの廃棄物倉庫より他にない。怪訝そうに彼女を伺うと、立ち上がって自信たっぷりに笑って見せた。
「何よ、私を気遣うだなんてあなたらしくないわ。いつも通り開き直りなさいよ」
「でも、あんな所じゃ寒いだろ。身体は……」
文島さんは口をつぐんで、何かを言いたげに視線をさ迷わせた。珍しく狼狽える彼女に違和感を感じて、何かあったのか問う。しかし彼女は怯えたように胸に手をやっただけで、すぐに僕を追い抜いて立ち去ってしまった。
谷崎も早く、と向こう側から無遠慮な声がした。僕は唇をとがらせる。
「なんだよ……」
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その後、文島さんを倉庫まで送り届けた。
倉庫の前には、不機嫌を体現したような『彼』が立っていた。僕と文島さんが一緒にいるのを見つけると、激しく眉を詰めた。
『彼』は駆け寄った文島さんの肩を抱き寄せる。その仕草に反吐と皮肉が出そうになったが、なんとか堪えた。
「さっきはどうもな」
一触即発の状況を感じ取ってか、文島さんが中に入ることを勧めた。
文島さんはあのうっすい茶と貧相な菓子を台に置いた。彼は臆面もなく菓子をつまんだが、すんすんと鼻をひくつかせる。
「どうしたのよ?」
「谷崎の匂いがする」
彼が蔑むような目を向けて来たので、僕は引き笑いをした。全くお前は犬か何かか。
もういい、この男に過剰に怯える必要はない。ここには文島さんもいるし、タイリクオオカミかでかいハスキー犬とでも思って接していこう。
「なあ。僕はもう腹を決めたんだ。これ以上馬鹿な言い争いはやめにしないか」
「ああ。もう俺も、それどころじゃねぇしな」
彼の不自然な言い方に疑念が湧いてきた。
「――で、本題は何だ。会いに来たってことは、何か用事があるんだろ」
彼は焦ったように切り出す。
「美保に完全にバレた。あそこで女を養ってることだけじゃねぇ。その女が文島希だってことまで、バレた」
「なんだって!?」
「手前と文島が喋ってるの見て、新聞なんかで色々調べたらしい。全く素晴らしい執念だ」
『彼』は複雑そうに目を落とした。
「手前、美保の性格知ってるだろ。隠し通すのに協力してくれる筈ねぇ。伯父さんと話した結果、二学期の終業式が終わったら、本土に移ることになった」
「随分早いのね」
そして彼は僕をしっかりと見据えた。
「手前も来い」
「はぁ!? なんで僕まで!」
「俺達がいなくなったら、美保は手前を問い詰めるぞ。だって手前は療養所の息子だしよ、文島と倉庫前で喋ってたの、美保に見られてんだぜ。放火したのは自業自得だが、手前がしょっぴかれるせいで希が追われるのはごめんだ」
僕は内心歯ぎしりしながら、
「母がいるんだぞ。学校もある」
「手前だって、家にいるの限界なんじゃないのか」
その言い草に心を惑わされたが、あえてはっきりと言った。
「文島さんは家に帰った方がいいと思うんだ。あんな薬に頼ったままじゃ、体が危ない」
「じゃあ聞くがよ、希が家に帰ったところで、何の救いがあんだよ。特効薬はねぇし、希の家族も、死が見えてる延命に金を使わなきゃなんねぇ。もう希の葬儀は終わった。社会的にはもう死んだことになってる。どうせ死ぬんなら、なぁ、――少しぐらい一緒に居たいじゃねぇかよ」
僕は憂鬱になり、深くため息をついた。
もし仮に、二人が伯父さんの申し出とやらを受けないとしたら。
『彼』は家の為に身を削って働かなければならない。文島さんは家に連れ戻されるだろう。周二しか頼れる人のいない家で、異形となった体を持て余し、成人する前に命を終える。
そう想像すれば、やはり伯父の申し出は救いだろう。
しかし、その申し出を受けるなら僕の存在が障害になってしまう。彼女を『殺した』あの事件の存在が消えなければ、彼女はいつまでも人々から追われ続けるのだ。
「……考えるよ」
僕には、そう言うのが精一杯だった。
それからは、いつものように弁当を購入して家に帰った。
母は相変わらずだが、気持ちが楽になった分、これからについて真面目に考えられそうな気がした。
いきなりの話すぎて、まだ、これからどう行動すればいいのか、見当もつかないけれど。
安息と三人
文化祭はつつがなく進行した。『彼』との軋轢もだいぶ和らいだように思う。
僕達のクラスは、合唱コンクール最優秀賞を取った。三年生はどう贔屓目に見ても、片手で数えられそうな人数の割にまとまりがなかった。近くの席に座っていた『彼』がこっそり、最上級生に花を持たせるためだろ、と呟いた。僕は彼に相槌を打ちながら、僕と彼の苗字があいうえお順で近いことにやっと気が付いていた。
美保さんはすでに首都圏のある高校を第一志望にしたらしい。これで少なくとも二人が島から出ることになるし、”みんなの”思い出としてはなかなか優秀なんじゃないだろうか。
クラスのみんなは打ち上げで盛り上がっていたが、僕はひとりで先に帰ってしまった。
『彼』の自転車も見当たらなかった。文島さんの面倒見や、両親・親との打ち合わせで忙しいに違いない。僕は鍵を取り出し、自転車のサドルを持った。
その時、校舎から一人の女子生徒が駆けてくるのが見えた。彼女はぶんぶんとこちらに手を振ってくる。視力の悪い目を凝らす。
「おーい! 谷崎くんっ!」
美保さんはガッツポーズをしてみせた。
「やったね。最優秀賞。出てないけど!」
「ははは」
会話の間をつなぐために笑いながら、心のなかでは早く帰らせてくれと呻いていた。美保さんはお構いなしに続ける。
「あいつは? もう帰っちゃったの?」
「みたいだね。ぼくも用事があるから、じゃあ――」
「ねえ」
美保さんが強く言った。自転車を押しかけていた僕は、どぎまぎしながら振り返った。 美保さんは自転車の荷台に通学カバンを置き、うつむいていた。
「ね。あいつが転校するって聞いたんだけど」
「転校?」
「お家が立ちゆかなくなっちゃったから、本国の伯父さんに引き取られんだって。知ってた?」
美保さんの目はどこか鋭かった。ハンドルを握りしめ、ぐ、とつばを飲み込みながらぜいぜいと絞りだす。
「さぁ」
美保さんは数秒、観察するように僕の背中を見ていた。そして、畳み掛けるように次の質問を繰り出す。
「あのさ。――文島希さんって、知ってる?」
「事故で亡くなった子だよ。彼が付き合ってたっていう。で、それがどうかしたのか」
僕は平然を装って返した。美保さんは率直に聞いてきた。
「谷崎君が森で話してた女の子はだれ?」
「それは」
声を濁した。適当なことを言っても彼女には通じない。けれど僕はもう、彼女に嘘をつくのは限界なんだ。
僕は自転車をひっつかんで、逃げるように走りだした。
「学校の外の友達。急いでるから、またね」
「ちょっと、――ねぇ!」
美保さんが慌てて叫ぶが、そのまま自転車に飛び乗って走りだした。
たどり着いたのは廃倉庫だった。文島さんは荷造りを行っている。待ち受けていた『彼』に、二人が望む言葉を投げつける。
「僕は、本土に行きたい」
『彼』は、ただ僕を見ていた。その瞳には、驚きが交じっていたように思う。
否定するわけでもなく、気遣うわけでもないそれが、今はなぜか心地よかった。
僕の決断を待ち望んでいたかのように、話はすらすらまとまった。本土に着いて当分は『彼』の伯父さんとやらに援助してもらうことになった。もう物件まで見つけてもらったらしい。
「まちなかの、騒がしいマンションなんだと」
おじに渡された写真を見ながら『彼』が言う。修学旅行じゃないんだぞ、とたしなめた。
出立は二学期の終業式前に決まった。荷造りを始めても、気がかりは消えない。母のこと。故郷と別れること。これからのこと。そして騙し続けてきた、美保さんのこと。
カレンダーに上書きされていくバツの字だけが鮮やかだ。濁り切る意識の中、僕はまだ悩みの中に浮かんでいた。ただ生きたいと願う気持ちは変わらない。
そして何も進まないままに、出発の朝がやってきた。
[newpage]
『父上、あなたは肘掛椅子に座ったまま世界を支配してらっしゃいました。あなたの意見が絶対正しくて、他の意見は全て狂って変で、おかしな意見ということになってしまいました』
しばらくの間、僕はちくちくするような文章と戦っていたが、ついに耐え切れなくなって文庫本を閉じた。せっかく文島さんが貸してくれた本だが、僕にはまだ早すぎた。
身震いをして、窓の向こうを見る。日はまだ昇っていない。
朝早く、文島さんと『彼』が僕の家へ来て、食事を摂ってから船に乗る予定だ。文島さんが生きていることを悟られてはいけないので、なるたけ目立たないように行動するつもりだ。
しかし、未だ文島さん達が来る気配はない。
「こんなに冷え込むなんて思ってなかった」
僕はひとりごちて、ニットの裾を引っ張った。ストーブはつけているが、そろそろ灯油が切れそうだ。
その時、ドアのチャイムがなった。本をテーブルに置き、スリッパをつっかけて応対する。
文島さんをおぶった『彼』が立っていた。ドアが開くと、『彼』は文島さんを下ろした。確かに文島さんに凍結した路面を”目立たないように”歩かせるのはきつい。コートには溶けかけの雪がくっついていた。
『彼』は寒さに対して過剰なまでに武装していた。顔の下半分はマフラーに覆われ、手袋とボア地の帽子からかろうじて顔が覗いている。ピーコートの長身と子供っぽい耳あてがちぐはぐだ。彼はくしゃみを一つして、
「俺は寒いのがきらいなんだ」
声が既に震えている。大丈夫かお前。
文島さんは黒のニット帽を被り、黒のファーコートを纏っていた。『彼』との比較を抜きにしても似合っている。
「すごくしっくりくる」
僕は懐かしい気持ちで彼女を見つめていた。文島さんが纏うコートは『彼』のもので、彼女の身長には大きすぎる。その姿は、親の服を着る幼子のようだった。
「やっぱり似合うだろ!?この服が一番なんだよ!」
文島さんは目を金に染め、きゃらきゃら笑う。あー、モドキモードか、応対が面倒臭い。彼らのぶんのスリッパを出しながら、
「じゃあ、食事にしようか。上着はそこに掛けておいて」
「俺は脱ぎたくない……」
『彼』が弱々しく抵抗して、服の裾をつまんだ。
「じゃあ勝手にしろよ。灯油も残り少なだ」
吐き捨てる。二人をダイニングに招き入れ、ストーブの設定温度を少し上げてやった。
僕が嘆息しているうちに、文島さんはパンや卵の位置を探り当てていた。彼女が包丁を手に取るのを見て焦って駆け寄る。
「やめろ、モド……じゃない、文島さん! 君は包丁の使い方を知らないだろ!危ないってば!」
「アハハハ、ケツの穴の小さい男だなぁ! ビギナーズラック発揮するから問題ないよ!!」
「ビギナーズラック以前に、そもそも卵は包丁で割るものじゃないからな!?」
まな板の上には生卵がちょこんと置かれていた。
両手で包丁を振り上げる彼女を無理矢理押さえつける。この状態だと本当に危なっかしいな。包丁を没収し、文島さんを雑に蹴飛ばした。
「僕がやるから、君は食器でも出してくれ!」
「た~に~さ~きぃ、君は料理なんかできるのかい?毎日弁当頼りだろ!?」
「さすがに卵を焼くくらいはできるわ!」
お嬢様生まれで無菌培養の上、思考状態のおかしい今の文島さんに包丁や火は任せられない。それに僕のほうが台所の勝手は知ってる。
『彼』といえばストーブにへばりつくようにして凍えていた。文島さんお前の嫁だろ、早くなんとかしろよ。それともストーブと結婚するか?
僕は呆れ返りながらも、やっとこさ目玉焼きとトーストを仕上げた。行く末が心配すぎる。
[newpage]
四個綴りの安いヨーグルト、トーストと目玉焼きだけの食卓だったが、二人はこれからに心躍らせているようだった。文島さんはイチゴジャムがお気に入りのようで、手にとっては舐めて遊んでいた。『彼』は牛乳を煽る。
「これからの予定なんだが、五時に出る船に乗って本土に行く。着いたら伯父さんが色々案内してくれるらしい。しばらく時間があるな」
「へぇ」
「気のねぇ返事だな。手前、もう母ちゃんとはお別れしたのかよ」
「母さんは今、ちょっと心を弱らせてるみたいなんだ。僕が父親を殺して家を傾けました、揉み消しに協力するよう言われたので逃げます、なんて言えるわけないだろ」
「言っちまえばいいんだよ。その方が母ちゃんも憎む対象ができてせいせいすらあ」
「馬鹿」
『彼』は、ヨーグルトの蓋の裏をぺろっと舐めた。
「どっちにしろ、何かしらお別れはしといたほうがいいぜ。俺は伯父さん通して連絡取れるけど、手前は今生の別れだろ」
「そうだな。自分で気持ちの整理は付けておきたいと思う」
文島さんはとうに食事を終えて、僕が読んでいた文庫本をパラパラめくっていた。歓喜に声を上げて、
「なるほろろ!カフカか!いい趣味してるな、谷崎のくせに!」
「文島さんが勧めてくれたんだけどね」
「そうだっけ?ふふん、さっすが文島、いい趣味してるな!」
モドキはコートの袖をわたわたさせてはしゃいだ。僕は生返事を返した。食べ終わった食器を片付けたのは褒めてやらなくもないぞ、文島モドキ。
「君は両親ときちんと別れたのか?」
彼はトーストを咥えながら頷く。嚥下して、
「おふくろは俺が本国に行くって信じて泣いてたが、おやじは違った。おやじ、俺が文島と付き合ってることとか、家からこっそり食べ物持ち出したり、服を買ってやったりしてることとか、多分全部気づいてんだ。これからについても、本国に行くわけねえとは、思ってんだろうなあ」
「夏休みの間毎日通ってたんだろ? そりゃバレもするよ。しかし、君のお父さんは文島さんとの関係を許しているんだね」
どうやらな、と、彼が得心して頷いた。
「俺、次男坊だけど一人っ子なんだ。俺が生まれる前に、兄ちゃんは死んだ。おふくろの兄弟間の争いが大元の原因だったらしい。遺産とか家督とか、めんどくせー事あってトラブったんだろうな。で、そんなことで子供を喪いたくねえってんで、こんな遠い島に来たんだと」
なるほど。生まれ育ちも外国の彼ら一家が、全く縁のないこの島に来たのはそんな理由だったのか。ということは、あの伯父さんとも昔悶着があったのかもしれないな。
「兄ちゃんがどんな子供だったかは聞いたことねぇが、おやじはさぞかし俺に期待してたんだろうな。俺がこんな息子じゃなきゃ、猫っ可愛がりしてたろうよ。だから、文島と生きること、許されたんだと思う」
「悩んだすえの結論が、生きたいように生きろ、ってか」
「ああ」
意味ありげに伏せられる目の奥、彼は何を考えているんだろう。
食べ終えると、『彼』が全員分の食器をまとめて流しに持って行った。僕は最後に荷物の確認をする。僕の貯金ぜんぶと、着替えと生活用品。金は盗られても平気なように分散して入れておいた。忘れ物があるとすれば。
「かあさん、ありがとう」
母はあのやつれ具合が嘘のように、安らかに眠っていた。白髪がぽつぽつ交じった髪が、枕に広がっている。この様子じゃ、昼まで起きないだろう。
印鑑や通帳なんかをすべて探り出し、ベッドサイドテーブルに置いておいた。親子でやっていくには厳しいが、母が慎ましく生きるには充分な額だ。
僕が隣町へ渡れば彼女は配偶者と子を失うことになる。母さん、親不孝な息子でごめんなさい。もうあなたに言い訳できないくらい僕は淀んでしまった。けれど僕はもう恐れない。絶対に、僕はきっと、何かを成すからね。
目の前がぼんやり滲んできた。いけない。自分で決めたことなのに、泣いていいもんか。乱れた布団を整えてやる。そして後ろ手に、優しく扉を閉めた。
「さよなら」
思いをいっぱいに込め、しかしそれだけを告げた。
下へ降りると、モドキは僕のカフカに読み耽っているようだった。灯油を継ぎ足す『彼』があまりにがくがく震えているので、カイロを手渡してやる。『彼』が洗い物を済ませていて、流しはきれいに片付いていた。彼は大きくのびをした。
「んじゃ、そろそろ船に乗るとするか」
「待ってくれ。乗船手続きは五時の少し前なんだよな。今は三時過ぎだから、まだ時間に余裕はある」
「それがどうした?」
はしゃぐ文島さんを娘のように抱きかかえ、『彼』が言った。恐らく彼女の豹変には慣れっこなのだろう。滑稽でもあった。僕はカーキ色のコートを着込んで、キャスケットを深くかぶり直した。
「ちょっと出てくる。先に乗船場に行っててくれ」
「船の時間に遅れねぇようにな」
「了解!」
『彼』と文島さんが荷物をまとめ、家を出るのを見届けた。僕は自転車に飛び乗り、早朝の真っ暗な街へ駆け出した。
離別と斬新
谷崎を見送り、家を出る直前、電話がけたたましく鳴り出した。『彼』が止めようと動いたが、間に合わず文島が受話器を手にしてしまう。切れとジェスチャーで示すが、その電話口の相手を見て、はたと手を止めた。
幼なじみ、灯椿美保の苗字だ。
「もしもーーーーーーーーーーーし!!! こちら谷崎家、文島であり、そうでないものーーーーーーーーーーー!!!! こんなに朝早くどうしたね!? お元気かな!?」
その異様な口上から、美保は通話相手を察したようだった。美保は電話口に向かってまくし立てた。
『あなた、文島希さんでしょう? もういいかげん懲りたでしょ。いいの!? あんな所で生きていたら、死んじゃうんだよ!? 付き合ってられないよ』
美保は呆れ果てて言った。
『谷崎くんからきいたんだけど、文島ちゃん、病気があるんだよね? いくら、あの倉庫ならあいつと居られるからって、不衛生な所にずっと住んでたら危険だよ。それに、当時療養所にいたあなたが、警察の前に顔を出せば、少しは犯人を見つける糸口が掴めるかもしれないのに、倉庫に引きこもって……』
「馴れ馴れしいなぁ君は!?!?」
自分を棚に上げ、文島は電話口で叫ぶ。それでもどこか上機嫌そうな文島を見て、彼はため息をつくばかりだった。
「君は善人と呼ばれるかも知れない、しかし、君みたいなやつがいちばんあくにんなんだよ!」
文島は頷き、陶酔して続ける。
「優しくしていれば、谷崎が心を開いて、その悲しみを君にぶつけるとでも思ったのかい? あっのねぇ、分かってないなぁ、谷崎はどうでもいい奴でも大切な人でも構わず、傷を覆い隠したがるヤツだったのさ! 誰にでも優しくしていればかまわず信頼して貰えると思うなよ! 世界はそう甘くない」
……何なの? そう言いたい気持ちをぐっとこらえて美保はくちびるを噛んだ。
私、頑張ってたつもりなの。みんなを傷付けないように、優しく出来るようにしてたつもりなのに。
『けれど、私は私の信念を突き詰めていくまでだよ』
理不尽を覚えつつも、美保はこともなげに言った。その言葉に、文島は腹を抱えて笑い出した。美保は呆気に取られて困り顔になる。
「アハハハハハ! 君はやっぱり谷崎に信用されてなかったみたいだねぇ!」
「何のこと?」
文島は笑いをこらえながら、美保に言ってみせる。
「ぜぇんぶ、何もかも、一から百まで、文島と谷崎の自作自演なんだよねぇ! 療養所放火事件は!」
美保の吐息が漏れ聞こえた。しばらくの間を置き、平坦な声音で、
『言ってる意味が分からないよ』
「谷崎は父親の抑圧から逃れたかった。文島は病から逃避し、あの子との恋愛に溺れていた。どっちもとっても療養所を壊したかった。そして、君が祭りで遊んでいた頃、谷崎は療養所に火を付けた」
美保は沈黙していた。
「文島は」
『嘘!』
美保は文島の言葉を遮って言った。文島はきゃらきゃらと言う。
「本人に聞いてみたらどうかなぁ!?」
『文島ちゃんのこと、信じられないわ。谷崎くんが放火なんてする訳ないっ……!!だって、谷崎くんは――』
その最後の言葉が聞こえる前に、文島は受話器を叩きつけた。これ以上は、自分が踏み込んではいけないラインだろう。文島は彼に向き直った。
「いこうか」
「いいのかよ。その、美保はよ」
彼はまたおどおどしている。自信なさげに受話器を見る彼に笑いかけた。
「構わないよ。眠くなってきたもの。それに、谷崎も彼女のほうに向かってるんじゃないかな」
彼は納得し、文島を肩に乗せた。しばらく歩くうちに、彼女は寝息を立て始める。肌寒さが頬をちくりと刺していた。その背で安眠する文島を思いながら、『彼』は思索に浸っていた。
他者からの悪意に弱いだけで、自分の本質は平和な男だ。ステゴロ殴り合いよりかは、日向ぼっこして、甘い生菓子を食べて、農業にでも精を出す田舎暮らしのほうがよほど幸せだ。そういう意味では、療養所が燃える直前が一番良かった。文島がいて、伯父との話もなく、仕事も学業も自分なりに頑張っていたし、家族仲もこの年頃にしては良かった。
……おれがその気になれば、文島をはねのけることだってできたんだ。
しかし、その苦手な道を選んででも、自分は彼女を求めたのだと実感した。
谷崎に比べれば家庭は平穏きわまりなかったし、そんな家庭を作れればと思う。
喧嘩馬鹿だの何だのと言われてはいたが、その都度叱ってくれたし、結局は愛情を注いでもらった。意味のない寂しさの中、文島を求めたことについても、父は認めてくれた。
ため息をつけば、空中に凍るように白となる。
本音を言えば、何も害することなく生きていきたいものだ。
「で、文島。そろそろ寝たふりはやめにしねぇか」
「げ」
文島は‘’モドキ‘’状態から抜ける時、きまって眠気を訴える。しかし珍しく、彼女の昏睡が浅いことに気づくのは簡単だった。
さて、いつ文島と‘’モドキ‘’は統合されるのだろう。
「今回はどこまでおぼえてる?」
「カフカ、読んだ」
文島は無愛想に答えた。
「ダメだな、相変わらず。本当に断片しか記憶が続かねぇ」
「しょうがないでしょ。私だってなりたくてあんな……あんな喋り方にしてる訳じゃないのよ!」
「でもなぁ、やっぱあの状態は手前のしんそうしんり? に、関係してんじゃねーかとは思うぞ。なんだっけ、『これ』?」
「うるさいわね!?」
文島は真っ赤になって、彼の背中に顔を埋めた。小説漬けだから、影響されてあんな喋り方になるんだ。ずっとそう考えているぶん、彼の言葉は恥ずかしすぎた。
「まあ、事故でも起こんねぇうちは、面白いと思うぞ。あれ」
「想像を絶するくらいつっまんないわよ」
文島はすねて、彼の服をきゅっと握りしめた。それに気づいた『彼』は、わずかに残った雪を踏みしめながら、
「なあ。本当に来て良かったのか」
文島は何か言いたげに彼に身を寄せた。彼は椅子に大きな図体を預けて、文島の横顔を見つめた。
「手前、病気だろ。今ならまだ、生き残ったって名乗り出て、実家に戻ることだってできる。そうしたら、いい治療が受けられて、寿命だって少しは伸びるだろうよ」
「私を疑ってるの?」
「いや、そういうわけじゃねぇけどよ」
「いくじなし」
文島は首に手を回し、胸と腹を押し付ける。彼の肩越しに頭を置いた。『彼』は照れてうろたえた。
「離れろっつの。重いんだよ手前」
「あら、私ひとりさえ支えられなくて、どうして誰にも頼らずに生きるなんて言えるのかしら」
文島は拳で『彼』の背中を叩いた。『彼』は素直に嘆息して、
「あのな、文島。谷崎にも美保にも言われたが、手前はほんとは家に帰ったほうがいいんだ。俺と本土に渡ったら、手前の死期は間違いなく早まる」
「本音はどうなの?」
「それでも、おれは手前がすきだ」
文島は笑いをこらえようと耐えているようだった。『彼』はふっと笑う。
「困るよな。すまねぇ」
「いいえ。――ねえ、攫ってくれるくらい強引な人のほうが、私には丁度いいと思わない?」
耳元で聞こえるあの強気な声に、ダビドは照れたような苦笑で応えた。それならば、と彼女の細い腰をぎゅっと抱きしめ告げた。
「俺と生きてくれ」
格好つけていう彼は、耳まで赤い。文島の表情がほころんだ。
彼女にとって愛情は麻薬だった。谷崎や兄の周二が見抜いていたように、彼女は『思い立ったら止まらない』性格なのだ。何かにつけて臆病で平和を望む『彼』や、自意識の塊で内省を繰り返し生きる谷崎、あるいは信念のもとに生きる美保とは違い、情にほだされ、熱を上げるのは仕方が無い。
文島はふんと短く笑い、身体を起こす。それから、手を回して彼の額を中指で弾いた。にやり、笑って、
「お安い御用よ、かわい子ちゃん」
『彼』に頬を擦り寄せる。
彼女の生きる末が変わることはない。それでも彼女は、破滅に向かって情熱的に生きることを思い、充分すぎるほどに満ち足りていた。
■
[newpage]
午前四時、空気はぴんと鋭利になる。海沿いの道路を走って、うっすらと白い並木道を抜ける。坂道を上り、下り、橋を渡って、住宅地にたどり着いた。フードがぱたぱた、背中でゆれる。寒さに身をすくめた。
やがて細道に入り、一般的な二階建ての家屋が見えてきた。民宿なだけあって、彼女の住まう家には、ご丁寧にも目立つ看板がたてられていた。周りは駐車場で囲まれていて、やはり人気はない。
こんな時間に美保さんが起きているかいささか不安だったが、二階の角部屋にはぼんやり明かりが灯っている。
草を踏みしめる音に気づいたのか、窓の中、前髪を梳かす美保さんが見えた。誰だか確認するように目を細めたのち、彼女はこちらを向く。
「谷崎くん!?どうして……」
「あー、えっと、……おはよ」
僕は苦笑いして片手を挙げた。美保さんは意外そうに目を見開いた。
「こんな時間にどうしたの」
「えっと、言わなきゃいけないことがあって」
彼女は怪訝そうな目でぼくを見ていた。
そこで僕は、一つの疑念を得た。今の彼女はいつものように、きれいに編まれた三つ編みをしている。彼女の性格と髪の長さから、今起きたというわけではない。
「なんで、そんな服きてるの。その荷物はなに。学校はどうするの」
彼女の声は悲しいくらいになめらかだった。
「えっと。その……驚かないでね。ああいや、やっぱり驚くのもしょうがないかもしれない」
「焦らさないで。なんのはなし?」
美保さんは手を何度も組み直した。その不安げな様子に萎縮したが、ここに来たからにはもう後には引けない。僕は彼女をしっかりと見据えた。
「僕はきみに嘘をついた」
ぼくはうめくようにして言った。
「僕の父の療養所がプロバンガスの爆発で燃えた事件。あったろ。あれ、全部嘘なんだ。本当はあれ、事故じゃなくて事件なんだ」
美保さんは少しの間を置いて、
「やっぱり。捜査の方向性が突然変わって、おかしいと思ったんだ。ずっと不審火だって騒いでたのに、いまさらプロパンガスの爆発だなんて言い出すんだもん。それで?」
美保さんが小首を傾げる。僕は拳を作った。
「療養所に放火したのは、ぼくなんだ」
息を呑む音が聞こえた。沈黙が永遠にさえ感じた。さっきまで何気ないふうを装っていた彼女は、痛ましい表情で僕を見つめている。
美保さんはまた、とてもかなしそうに顔を歪めた。あのね、と優しく前置きをして、
「文島ちゃんから聞いたの。あなたが、お父さんを殺したって」
あいつ、余計なことを。僕は内心で舌打ちをする。けれど、これで美保さんのショックはなんとか軽減されたかもしれない。
僕はうつむいて、しゃきぱき、と音を立てながら、霜の降った草を踏みつけた。
「美保さん、逃げてもいいんだよ、って、言ってくれたよな。でも、僕には逃げるべきところがわからなかったんだ。結局はきみのことさえ頼れないまま、父やそれにまつわる全てを拒否した。たぶん、正しくない選択だったんだな、ってのはわかるよ」
咳払いをする。
でも、美保さん、君は間違っていないからね。僕は余裕がなさすぎて、君の言葉をちゃんと受け止めきれなかった。だけど、君の言葉を欲してる人が、必ずどこかにいるはずなんだ
「それにね美保さん、僕はこれから、逃げてばかりではいられない時がきっとやって来る。頼るべきところで頼れない、立ち向かうべきところで逃げてしまう。そんな人間になってからじゃ手遅れなんだ――僕はとりあえずは、立ち向かえる人間になりたい」
僕は僕を罰さなければいけないのだ。
「谷崎くん!」
「ねえ」
美保さんの叫びを遮る。
「これはさ、どうしようもないくらいの戯言で、軽侮されるくらいばかで、すっごい自己満足なんだけど、それでもお願いしたいんだ。いつか、僕がすっかり成長して、きみに顔向けできるようになったら、――きみに会って、きちんと謝りたいんだ」
「どうしてそんな事ばっかり言うの!?謝るようなことされてない!ねえ、学校に行こうよ。それで、今のことも全部話して――」
「無理なんだ」
彼女は窓枠を掴み、大きく身を乗り出した。
「どうして!?それこそ、『逃げる』ってことじゃん!?」
「いったんは僕もそう考えた。けれど、償わなくちゃいけない人が、ひとりだけ生き残っているんだ。僕や、あの事件が消える事でしかその人は救われない」
「それって、文島ちゃんのこと?」
大きく息を吐き出しながら、視線を下げた。彼女にはそれが頷きに見えたらしい。
美保さんは顔色を変えて、窓際からさっと離れた。
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「待って! 今そこに行くから。ちゃんと話そう」
一階の扉が開いて、美保さんが靴も履かずに駆け出した。僕はあわてて自転車をつかみ、ペダルを強く踏み込んだ。
「待ってよ」
僕は応えなかった。自転車を立ちこぎでかっとばす。
美保さんは泣かなかった。責めもしなかった。僕の名を呼びながら、パジャマも乱れた髪もそのままに、裸足で冷たい道路を走ってくる。あれじゃ足の皮が道にへばりついて、かじかんで痛くて仕方がないだろう。
「谷崎くん、どうして行っちゃうの。待ってよ。谷崎くん。谷崎くん。谷崎くん……!」
美保さん。もう追いかけなくたっていいんだよ。労わらなくていいんだ。君は僕なんか気にかけずに、もっと遠いところまで飛び立って、むきだしの価値観で君の夢を追うべきなんだ。
そこまで考えて気付いた。僕には何を言う資格もない。
「谷崎くん。ねえってば」
何度も繰り返される響きが切なかった。もうさよならなんだと思うと、悲しくて、さみしくて仕方なかった。
最初から、きみが僕のそばにいてくれたならよかったのになあ、そうしたら、僕は……。
タイヤが音を立てて枝を踏み付ける。路面がやや凍っているので、走って追いつけるくらいのスピードしか出せない。
文島さんは、死を覚悟した時彼を呪ったという。『彼』を知らないままなら、それを求めて苦しむこともなかったから、『彼』を呪ったのだ。でも彼女はそれを後悔し続けていた。
それならば僕の言葉は、
「――ありがとう、さよなら。美保さん……!」
僕は彼女への最期の言葉を告げた。
美保さん。君が君であれるように。それが、僕の抱く気持ちだ。
美保さんは少しの間、僕を追い続けていた。しかし、どれだけ走っても追いつかないと悟ると、やがて、栗色の髪を凛となびかせて家に戻った。その華奢な背中から、やりきれなさがいっぱいに伝わってきて、僕は胸を引き裂かれるような気持ちになった。
僕はちらちら後ろを振り向いて、彼女の後ろ姿が小さくなるのをを見つめていた。彼女が家に入り、勝手口がぴしゃりと閉じられるのを見て、僕は一抹のさみしさを覚えていた。
僕は眼鏡を外して、もうすっかりしめった袖口で、目のあたりをごしごし拭った。自転車のスピードを上げる。
「僕は海に行かなくちゃ」
小声でひとりごとを言い、自転車を回収して海辺へ向かった。
■
来た道を必死に戻ると、ぼんやり波打つ水面が遠くに見えた。『彼』と思しき背中がベンチに腰掛けていたので、僕はそこに歩いていった。
海は凪いでいた。漁船の小さな影がゆらゆら揺らいでいる。朝靄に包まれたそれらは、緩慢な動きで波を掻き分けている。
波打ち際の水面は硬くせり上がり、次の瞬間、白い鉤爪となって砂浜を撫でた。ターコイズブルーの水面は、さながらガラスだった。
人影のない海辺で、僕は呑気にあくびをする。母なる海。陳腐なフレーズを思い、ベンチで遠く水平線を見ていた。
こちらに気づいた『彼』が、挨拶するように右手を上げた。
「どこ行ってたんだ手前」
「ん、ちょっと、……大切な人と、お別れしてきた」
「はぁ、手前にそんなもんいたのか。なら何で俺らの邪魔したんだよ」
「ああ、もううるさいなぁ。恋愛関係なんかじゃないよ。詮索はやめろやめろ」
僕は手をひらひら降って『彼』を制した。話題を転換させ、
「君の彼女はどうした」
「便所だとよ。身だしなみに気ィ使い過ぎだ」
「君が使わなさすぎなだけだ」
言うと、彼は困ったように笑った。
僕達は並んでベンチに腰掛け、夜明けの海を眺めていた。水彩絵の具でぼやかしたような色合いだった。空は真っ直ぐに青く、グラデーションを経て、水平線近くは薄いサーモンピンクに染まっている。
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ふと、肌寒いな、と彼がぼやいた。見れば彼は上着を着ていない。恋愛小説を見習って、文島さんに上着を掛ける彼を想像すると、おかしくてたまらなかった。
僕は髪をかきあげた。背後から朝日が照らしてくる。
「君にはいろいろと、迷惑をかけたな。今となっては分かるよ」
「もういいんだ。俺達、友達だろ」
『彼』は鼻頭を掻きながら言い放つ。文島さんにも言われたあの言葉が、どうにもくすぐったかった。
僕は文島さんの『ともだち』であり、彼の『ともだち』だ。それをじっくりと噛み締めた。
「僕は、きみが羨ましかったんだ。認めてくれる人が欲しかった。けれど、文島さんや美保さんを得た君が、外見に反してうじうじしているのがどうにも気に食わなかったらしい」
「他人事かよ」
彼が口端を歪めてにやつく。
「けど、今はもうそんな事少しも思ってないよ。きみは親に勘当されながらも、自分の意思を貫いて文島さんと共に生きる道を選んだ。その選択が正しいものだったかはさておき、きみは強い」
指を組み合わせて、歯がゆそうに笑う。
僕もそんな強さが欲しかった。自分の筋を貫き通せる人間だったら、きっと放火なんてしなくて良かったんだ。
「強さって、いったいなんなんだろうな。僕は、美保さんはとんでもなく頑丈だと思ってたけど」
「手前の言う強い弱いはわかんねぇが、美保はあれで繊細だぜ。だから俺みてぇのと長年つるんでたし、政治家になりたいなんて言ってんだ」
「ルサンチマンか」
僕はおどけて肩をすくめた。
「美保さん、きみには辛辣なんだな。ともあれ、美保さんの夢が叶うことを祈ってるよ。きみはどうなんだ?」
そこでふと、彼に目線をやる。朝日で鼻筋が照らされていた。
「俺は俺の夢だけで精一杯だ。ビッパのおやじからさっさと自立しねぇと」
「子供がどうのってやつか」
文島さんとの会話を思い出し、苦い気持ちになる。文島さんもこいつも葛藤の中にいたことだろう。そして『彼』は、首を振った。
「俺の選んだ道は、強さじゃねぇだろ。遺族に真実を隠して、文島と逃げるのはただの自分勝手だ」
髪飾りの件を思い出したのか、『彼』はさみしそうに言った。
結局はみんな、自分勝手な選択をする時もあるってことだろう――『彼』も、僕も、文島さんも。
貝殻が波にさらわれ、からからと鳴った。
「そういえば、どうして君は文島さんのことを好きになったんだ。君の口から聞いてみたい」
「手前がそんなこと聞くだなんて珍しいな」
彼はゆっくり唇を割った。
「俺はずっと喧嘩ばっかしててよ、おやじにもおふくろにも美保にも、お前は喧嘩しかできねぇ阿呆だって叱られてたんだ。自分も周りも好きになんてなれる訳ねぇよな。だから最初に文島に惹かれた時、あいつのことも壊しちまうところだった」
そこで彼は微笑する。その喋り方は相変わらず要領を得ない。
「でも文島は、壊すことを許してくれたんだ。対等に喋ってくれた……それだけで俺は、全部捧げちまっても構わねぇような気分になったんだよ」
『彼』は、これから向かう海の向こう側をずっと眺めていた。なんだか納得した。
やっぱりこいつは単細胞だし、美保さんと母親以外の女と縁が無さそうだからな。もし文島さんと出会っていなければ、将来結婚詐欺とかにカモられてたかもしれない。
「文島はあんな狭苦しい病室でずっと耐え続けて静かに生きてる。与えられたもの以上を望まねぇんだ。けど、それって全部諦めから来てんだろ。俺ぁ、そんな文島を見てると悲しかったんだよ。ちったぁ力になれたらって思ってたんだ」
自分を肯定する存在が自分しかいない中、全てをまっすぐに愛してくれる女性が突然現れたら、後先考えずに夢中になるのはわかる気がする。
結局のところ、愛情に飢えた男女がうまく交流したことでこの恋愛は生まれたのかもしれない。しかしそれで島を出て事実婚とは、まだ幼さが残る反面、思い切りのある決断だ。僕は不安と感嘆交じりの息をついた。
真理と希望
「なあ。僕達今までこんなに話したこと、あったろうか」
「俺は馬鹿だったからな」
「そしてぼくも傲慢だった。こんな事が言い合えるあたり、僕達は成長したらしい」
「こうやって成長を重ねれば、いつかは手前の言う強さが見えんだろうかな」
「そう願おう。なんたって僕ら、もう15なんだぜ。多少の無茶は経験の種だ。な」
『彼』は何度も頷いた。
「とんがってようが、たりない所があろうが、俺達のガキの人生はそいつらのもんだ。他の誰にも渡しゃしねぇ。あっちについたら出来るだけ早く職を見つけて、伯父さんから自立すんだ」
「うん。どう生きたって結局はおとなにならなくちゃいけないしね」
僕は空を見上げながら返した。僕の境遇を思い出したらしく、彼は複雑な顔をして頭をあげた。
「俺は文島が好きだ。文島が俺を好いてくれてるのも分かってる。だから、二人で一緒に進んで行きてぇんだ。どっちかが突っ走ることも、座り込むこともいやだ。だから俺は俺の出来ることを全力でやる。でも谷崎、きっと少しずつずれる時が来る……その時は、ちょっとでも力、貸してくれや」
彼は自分に誓うように話した。恋に酔うと笑うのは簡単だが、今この海辺にいることが彼の意思を示している。
「文島さんも伯父さんの交換条件についてあれこれ案じていた。僕はできる限り力になりたい」
「ありがとうな、谷崎。きっと不幸にはしねぇよ」
僕は顔を見ながら、しみじみと返した。
「そうだな。僕も……僕の出来ることを……」
そこで大きく息をつく。背もたれにぐったりともたれかかった。彼がこちら側に頭を向けて、どうした、と聞いてきた。僕は夢見心地で答える。
「なんでもないんだ……ただ……もう誰も、君のことを臆病者だなんて言わないだろうよ」
過去の自分をぶん殴りたい。こいつはでかすぎる体のくせ繊細だし、その割に気は利かないし、口は悪いし、頭もよくないだろう。それでも、文島さんのことを誰より想い、努力している。これからの生活の見通しもいちおうは立っているし、支える意思もある。今の彼になら、文島さんを託すことができそうな気がした。
そして、僕は『彼』に告げる。
「なあ。何があっても、彼女だけを愛してくれないか。いずれ生まれいづる君の子供たちを、めいっぱいに愛してやってほしいんだ。愛情の中で生まれ育つということが、どれだけ素晴らしく美しいことかを身をもって教えてやって欲しい」
僕は眼鏡を押し上げた。
「僕は結局父を受け入れられなかったけど、きみの子供たちには、きみを愛せるように育って欲しいんだ」
「んな分かりきったことお説教してくんなよ」
感傷に浸って言うと、『彼』は僕にこつんとデコピンをかましてきた。口が十分に笑わない、無愛想なあの笑顔がいとおしい。
僕は気分を変えようとのびをした。
あのころの僕は逃げ出したいと願い、今それが現実になろうとしている。数え切れないほどの重い罪を背負いながらも、それでも僕はこれからも生きていくのだ。
ふいに後ろから、文島さんの声がした。
「あら、待たせてごめんなさいね」
彼女はコンクリートをご機嫌で蹴った。僕は彼女の首筋に目をやる。コートのファーから覗くのは、見覚えのない黒いチョーカーだった。
「なんだい、首のそれ」
「ふふ、いいでしょう。この子がくれたのよ」
彼女は『彼』の首に後ろから手を回して抱きしめた。そして、ベルベットのチョーカーを自慢げにつまんでみせる。『彼』は照れからかしきりに唇をもごもごさせていた。
文島さんの惚気具合にボルテージが高まってきたので、文島さんの腹のあたりを見ながら冷たく皮肉る。
「そういえばきみ、太ったかい?」
「なんですって!?」
文島さんは勢いよく歯を剥いた。ぷっくり頬を膨らませて、
「太るようなものなんて食べてないわよ!」
「でもよ、薬だかのせいで体調は良くなったんだろう。なんか血色もよくなったしよ、前が痩せすぎだったんだ。今くらいが一番かわいい」
「ふん……ならいいけど……」
『彼』がフォローすると、文島さんは僅かに頬を染めた。腕組みをして、僕のほうに身を乗り出した。
「今度そんな事言ったら、あなたもこの薬の中毒者にしてやるんだから!」
「うへえ、一人称『此れ』はごめんだね」
僕はわざと口笛を吹いてからかった。文島さんの頬が熟れた林檎のように染まる。
「やめなさいよぅっ……!!」
「はいはい。じゃあ、そろそろ乗船の手続きに行こうか。あまり目立つのはよくないから」
僕がそう言うと、二人はゆっくりと身を起こした。
[newpage]
僕達はベンチから離れ、乗船場にたどり着いた。
簡単な手荷物検査が行われ、引っかかることなく、キャリーバッグを預けることが出来た。しかし、係員が言うには、本土では今渡航規制がされていて、未成年は保護者同伴の時のみ乗船許可が出るらしい。
「そんなに治安ひどくなってるんだな」
ぼやくと、文島さんに肘鉄を食らった。彼女にとっては死活問題だろう。伯父さんに来てもらえばよかったと泣きそうになる彼女を見て、『彼』がおずおずと、
「俺、成人してます」
「はい。しかし、この学生さんたちとはどういったご関係なんでしょうか。身分を証明できるものを……」
本当は中学3年生の『彼』があっさりと成人認定されたのはまあいい。こいつは老け顔だし背も高い。
しかし、僕達三人はどう見たって血縁者には見えなかった。『彼』は見た目だけは逞しい外国人だし、僕は茶髪そばかすのヒョロもやし、文島さんは長い黒髪のつり目少女だ。
「あー」
『彼』は困りきって頭をかく。文島さんは冷や汗をかきながら『彼』の腕に抱きついた。そして勢いよく叫ぶ。
「父娘なんです!! ねっ!? お兄ちゃん!?」
文島さんが僕を見ながら叫んだ。表情こそ笑顔だが、目がマジだ。やめろよ、そんな振りをされて上手く返せるわけないだろ!?
僕は硬い表情のまま、『彼』のもう片方の腕を引っつかんだ。文島さんと彼、そして係員を交互に見ながら、必死の様相で怒鳴った。
「そうそう、そうなんですよ! お母さんとお父さんが離婚しちゃって、えーと、この人は新しいお父さんなんですっ!?!?」
引きつった笑顔で言うと、ドン引きしている『彼』と目が合った。あっ……やめてその目……?
『彼』は僕達の手を優しくほどき、財布から何かカードのようなものを取り出した。恐らく、身分証明を求められた時のために伯父さんに与えられた偽造品だろう。そんな便利なものがあるなら先に出せよ。何がお父さんだよ。
手続きを終え、僕達は受付から離れる。
「まったく、生き恥をかいた」
「よかったな」
僕が怒っていうと、『彼』はくすくす笑った。誰のために、恥を忍んであんなことやったと思ってんだ。
「しっかし、よりによってお父さんはねぇだろ。さすがにそんな年には見えねぇよ」
「だから、離婚して再婚した末にできた、義理のお父さんなんだよ。いとこのお兄ちゃんなんかじゃ話が通じないからさ」
「手前ら二人とも、作り話の読みすぎだ」
『彼』はきっぱりと言い切った。
「お父さんねぇ」
文島さんが『彼』に腕を絡めた。
『彼』は伯父さんに手土産を買うと言っていなくなったので、僕は文島さんと席を探すことにした。
まだ朝は早いが、乗船所の待合室は穏やかに賑わっていた。大きなガラスの向こう、揺れる水面が見える。待合室にはやはり老人が多い。
その中にふと、見知ったあの女性を見つけた。
生き残った療養所の看護師。――都都宮弓子だ。彼女は淡い茶色のダッフルコートの下に、カーキ系のワンピースを来ていた。ムートンブーツを履いている。すらりとした足はぞんざいに組まれていた。
息子のあさひ君と、もう一人女の子が彼女の傍に座っている。あさひ君は船からあがる水しぶきにはしゃいでいた。目に入るもの全て、明るく楽しく見える年なのだ。
弓子さんはまだ若い。しかし、本土行きの船に乗ることから、弓子さん自身も落ち目なのだろう。それでも、口には出さなかった。
弓子さんは彼の後ろ姿を見とめて、こちらに気づくとほくそ笑んだ。開口一番、
「ははん。そんな仲だったの」
弓子さんが眉を立てる。整った唇が半円にねじれた。
「毎日見舞い客だかが来てるとは聞いてたけど、まさか男を連れ込んでるとはね。病人のくせにやるじゃない?」
文島さんは、値踏みするように弓子さんを見つめた。記憶に刻みつけるようにして、弓子さんの顔を凝視していた。金の抜けかけた眼からは全く感情が読み取れない。弓子さんはたじろいだ。彼女が躁状態に入るとまたやっかいなので、僕は文島さんの脇から口を挟んだ。
「あなたが言えることじゃないでしょう」
「あら、……真理君? お気の毒ね、先生が亡くなられて」
呼吸をするように皮肉を吐くのは相変わらずらしい。弓子さんは困惑交じりの笑顔を浮かべる。文島さんの手を取り、『彼』の方へ導いてやった。残された僕は、弓子さんを見た。
「めちゃくちゃになったわね、色々と」
「おたがい。お久しぶりですね」
冷たい目だったが、どうにも反応する気が起きなかったので適当に交ぜっ返した。確かに僕さえいなければ彼女の暮らしはいま以上のものだったろう。
そしていまの僕はどん底だし、これからも辛いことを経験し続けるだろうが、それでも 僕は彼女のようになりたくなかった。自分のこの抵抗を、相変わらずかたくなだと自嘲して笑った。
この半年ほどの間、僕はさまざまなひとと出会い、様々な表情を見ていた。
弓子さんが見せる母親の表情と、僕を謗る意地汚さ。
美保さんの聖人のような前向きさ、そして僕にどう接していいのか分からず、戸惑う弱さ。
『彼』の粗暴な態度と、文島さんへの愚直なほどの恋慕。
文島さんの意地っ張りで幼稚な態度と、僕を慈しんでくれた寛容な友人としての一面、モドキとしての全てを見透かしたような人格。
ならば僕は、自己中心的な思考と、そして…………そして、なんだろう。僕は単純で、潔癖すぎた。
ふいに風が吹き込み、僕の短い前髪を揺らした。
人間は多面体――。
弓子さんの柔らかい手が、あさひ君の肩を撫でるのを見届け、僕は目を逸らした。
[newpage]
同時に、隣に座っていた老人に話しかけられる。この島には珍しく、垢抜けたシャツとジャケットを着た紳士だ。しわが刻まれた顔を笑みに変え、老人が会釈する。
「おはようございます」
「おはようございます。本土の方ですか?」
「ええ。息子の弔いに来たんです」
彼は海のほうを見ていた。その言葉は胸をちくりとさせた。老人は僕や文島さんの荷物を目にして、
「きみは、うん、旅行に行くのかな。本土はいい所だけど、この島も綺麗ですよ。折に触れて思い出してみるといい」
老人は頷きながら言った。彼の真意ははかりかねるが、僕は相槌を打った。
ちょうどその時、乗船の呼び出しで僕達が呼ばれた。『彼』と文島さんが迎えに来たので、老人に挨拶をして、荷物を抱えて乗船の手続きをした。一期一会とはこういうことだろう。
手ぶらになった僕達は、乗船口への長い廊下を歩き出す。船まではやけに長い廊下が続いていた。文島さんはカーペット地の床を楽しそうに蹴る。『彼』は窓から見える船に目をきらきらさせているようだった。
やがて突き当たりを右に曲がると、乗船用のタラップが見えた。階段を上り、吸い込まれるように中に入った。『彼』は顔には出さないが、初めての船とあってかなり興奮しているらしい。文島さんはそんな彼の手を握っている。
「私たちは船室に行くけど、あなたはどうする?」
「ああ、……僕は船首の方に行こうかな」
「うん」
それがいいわ、と言わんばかりに文島さんが頷く。そして僕の肩を強く掴み、無理やり
「ねえ谷崎。今後、落ち着くまでもうこの島には帰らないでね。家庭を作って、あの子との子供を産めば、私はもう別人になって暮らせるの。私たちの邪魔をしないで」
「まるで管理されてるみたいだな」
「だってそうでしょう?私の一生を奪おうとしたんだから、あなたの一生で償ってよね」
はっきりと告げられた言葉に、また邪推を始めてしまう。
「もしかしてきみ、こうなって良かったなんて思ってるんじゃないか。あの療養所の地下に閉じ込められるより、薬でぴんぴんした体になって、ご執心の『彼』と一緒に家庭を作る方が、よっぽど良いもんな」
「さあ?」
文島さんは『彼』の様子を伺いながら、口元を手で隠して酷薄に笑った。
そういえば、結局モドキと文島さんは同一人物だった。だがそれなら、どうやって彼女はぼくの秘密を知ったんだろう。話せるような友人なんかいなかったし、第一他人に言えるような話題じゃない。目の前で笑う文島さんを見て、背筋に汗を滲ませる。
もしかしたら僕は、まともでない友人を作ったのかもしれない。
秘密を見抜かれ意思を剥奪される僕と、泥沼のような恋に溺れて人生を狂わせる『彼』と。『彼』と僕が知り合ったことも、僕が療養所に放火した事も、伯父さんが援助を快諾したことさえも、まるで彼女の手の上で踊らされているように思える。
文島さんの長い髪が揺れる。なんの感情も感じない、張り付いたような笑顔をじっと見つめていた。
見かけは単純なようで、やっぱりどこか不気味だ。
文島希――それでも大切な、僕のともだち。
文島さんと『彼』とで後で落ち合う約束をして、僕はおもむろに船首へ歩き出した。エンジンが低く唸っている。薄ぼんやりと本土の輪郭が描き出されてきた。風が強めなので、ニット帽をショルダーバッグに突っ込んだ。僕は手摺りに駆け寄った。とぷん、と船が揺れる。
船首は荒波を掻き分けて進んでいく。他の船のない朝の海にあってもそれは力強かった。海を削り、颯爽と前へ進む姿は途轍もなく凛々しかった。僕は手すりにしがみついて、揺れる波をじっと見つめる。
薄暗く輝く水面を、目で貫くようにして追っていた。冬の海とは、こんなに綺麗だったか。
僕は携帯を取り出し、学校に電話を掛けた。何度目かのコールの後、女性の声が応対した。
『はい、こちら島立中学校です』
「あ、もしもし。三年の谷崎です」
『はい、どうしましたか』
電話口の相手は、エンジン音や波の音、遠く聞こえる人々の話し声を訝っているようだった。まあ、携帯なんて持ってる中学生は少ないもんな。
[newpage]
僕はためらったが、時計を見て、もうかなり島から離れていることに気づいた。
「後で家に届けておいてもらえますか。進路のこととかで、担任と話したいことがあるので」
『分かりました』
電話はほどなくして切れた。これで母についても一先ず安心、といったところか。
母宛に、罪の告白と家出を綴った手紙を残しておいた。部屋を探せば証拠品が出てくるだろう。文島希を世界から消し去って死体にして、療養所放火事件は終わりを告げる。
言ってしまえば、もう僕には罪を洗いざらい告白し、法に則って償うことはできないし、それを行う意思もない。
置き手紙を残し、美保さんに全てを話すという選択が、文島さんに括りつけられた僕の、せめてもの良心だ。そしてそれが、散々にぶつかって傷つけあった文島さんと『彼』のためなのだ。
正しいかどうかなんてこの際気にしない。
正義が証明できるものなら哲学も宗教もとうの昔に完成されていた。他がどう言おうが僕はこうする。
僕は携帯電話を閉じ、バッグに入れた。
できるだけ早く捨ててしまおう。足がつくといけない。
白み出した空を見上げた。
骨の髄まで冷えるような日だが、しかし空には雲一つない。青と白が空が溶け合って、このうえなく美しい。今日は日の出が早いんだな。
この先、僕はどうやって生きて行くのだろう。大いなる不安とともに、期待している自分がいた。
僕はいま、世界の夜明けを初めて見つめているのだ。
父を殺して楽になったろうか。文島さんに心情をぶつけ、涙が枯れるほど彼女の胸で号哭すれば償われるか。
違う。
寂しかった自分がここで生きていた。それを受け入れ、認めた僕はもう、過去のあやまちを思い出にして、『ここ』から立ち去らなければならない。
本土はきっと、この街よりも混沌としていて、きらびやかで、葛藤も何もかもたたきつぶしてくれるかもしれない。
あの時僕を支配していた憎しみとは、もう決別してしまおう。けれど、全てを忘れてはいけない。あいつ――父や母や美保さんのこと、生まれてから中学生まで生きたこの島のこと、過ちのこと。
心臓がどきどきしている。
僕は船の行く先としっかりと向き合った。風の中でも、僕は立っている。
いい思い出がどうにも見当たらなくて、クソッタレな世の中だが、僕はそこに僅かに見える光を信じて生きていたいんだ。
そう、何も恐れることはない。
愛することを恐れないで――。
文島さんのあの言葉を胸に強く刻みつける。
本土に着いたら、みんなで未来の話をしよう。
これからやって来る、祝福されるべき未来のこと、明日のこと。
吹き荒れる風はしかし、爽やかだ。
僕はある祈りを胸に秘めながら、空を見上げてみせた。
――そうだ。そろそろ夜は、あけるだろう。
夜明けの柔らかな光に照らされながら、僕は少しだけ泣きたくなった。
【完】