&party

周波数を合わせて

死体はともだち//中

皆の秘密

 時刻は朝七時、紅神様祭り翌日。

 滑らかで温かい布団に包まれて、僕は天井をじっと眺めていた。昨夜帰ってきたあとどうも眠れず、早々に目が覚めてしまったが、布団から出る気力もない。昨夜の僕の行動はきっと正義だ、言い訳にも似たそんな思考を巡らせ続けていた。そして、蒼白な顔の母が僕の部屋に飛び込んできた。

 「真理ちゃん!」

 母が泣きそうな顔で僕に縋る。


 「お父さんの療養所が火事になったって、放火だって……」


 叩き起こしていきなり告げられた。
 目を見開いた。寝ぼけていた頭が一気に覚醒する。僕に話すというより、ぶつぶつ呟くように彼女は、

 「全焼で……一人も生存者がいないって……」
 「つまり、患者さんも、父さんも、死んだってこと?」
 「そう、そう……ああ、ママこれからどうしよう……」

 母が泣き崩れる。うろたえぶりから、すでに現場を見てきたのかな、と呑気に思った。母とは反対に、僕の頭は妙に冷静だった。

 焼死。

 花火の夜にふさわしい散り方だ、と告げるには不謹慎すぎるか。文島さんの笑顔がこびりついて離れない。以前文島さんに告げた言葉を思い起こしていた。

 ――「きみはきっととんでもない死に方をするだろうね」。

 あの時、病ではなくまさかこんな形で別れるとは、思いもよらなかった。
 そういえば、花火を見ることができると告げた時、彼女は言ったのだ。「火ね、見たことないわ」「足が竦むでしょうね」。実際文島さんは火に飲まれて死んだ。

 言葉通り全てが叶えられている。

 記憶の一つ一つが鮮明に思い出せるのに、文島さんはもうどこにもいないのだ。
 まだ余命はまだあったし、昨日はあんなにぴんぴんしていた。それでも彼女は死んだのだと自分に言い聞かせながら、ぼんやり虚空を見つめていた。[newpage]

 それから夏休みが明けるまではとても忙しかった。
 あの夜療養所にいたことで警察に拘束され、遺族が慰謝料を求めているとかで裁判の話を聞き、父の親戚に挨拶回りをさせられる。
 母はかなり憔悴しきっていたので、代わりに僕が応対させられることも多かった。

 それでも変わらず新学期はやってくる。
 教室のドアを開けると、クラスメートが一斉にこちらを見るのがわかった。女子の何人かが声を潜めて笑いながら、ちらちらこちらを見ている。数秒の後、輪の中から一人が抜け出て、僕に挨拶をした。

 「谷崎くん、おはよー」
 「……おはよ」
 「なんかさー、夏休み中なんかあった?」
 「宿題で大変だったよ」

 僕が一言を言う度に、彼女と、その後ろに立つ女子が顔を見合わせて笑う。不快極まりないから、僕はじっと黙っていた。父の療養所が全焼し、母と僕だけが残されたことは、地方紙にも載った。僕も母も人付き合い上手ではなく、元々資産家であることを妬まれていたのだろう、周りの手のひら返しは激しい。

 「でさー。谷崎くんさー、服とかどうするの?」
 「は? 療養所と僕の家は別の所だけど」

 あえて自分から核心をつく。
 顔を見合わせながら、密やかに笑う彼女たち。僕は睨むこともせず、平常のトーンで彼女に言った。

 「言いたいことがあるならはっきり言えよ」
 「そーよ。――おはよ、谷崎くん」

 美保さんが颯爽と現れ、僕の肩をやさしく叩いた。自席に鞄を置き、ためらいなく女子の輪へ入っていく。

 「おはよー、久し振りだね皆ー」
 「……何いってんの美保。たった一週間じゃん」
 「十分久しぶりだって」

 何事もないように彼女達に接するあたり、美保さんはやっぱり色々とすごい人だな。彼女は楽しげに談笑してから、まもなく自席で自習を始めた。
 僕の方は、紅神様祭りの夜にやらかしたショックが抜けきらないのか、頭がぼんやりしたままだ。情けないと思いながらノートを机に出した。
 美保さんといえば、『彼』の姿が見えない。ずば抜けて高い身長と顔立ちでよく目立つが、教室のどこにもいないようだった。

 そして『彼』は、結局一日が終わってもやって来なかった。律儀にも病欠との連絡が入っているが、公衆電話からで、本人の声も元気そうだったらしい。


 「谷崎、お前とあいつ、何かあったんじゃないだろうな」

 放課後の教室で担任に訊かれる。

 「夏休み前、お前はあいつに骨を折られたそうだし、学校ではお前とあいつが口論になって途中で帰ったそうじゃないか」
 「前者は不慮の事故でもう保護者と話が付いてますし、後者は和解しました」
 「でもなぁ」
 「大体僕とあいつが喧嘩したとして、なんであいつの方が不登校になるんですか。学校に来なくなるんなら僕の方でしょう。何もありませんよ」
 「…………わかった」

 相手の方を見ず帰り支度を続けていると、担任は納得行かないようにつぶやき、美保さんにプリントを届けるのを頼んで、教室から出て行った。僕は美保さんに話しかける。

 「美保さん、学級委員長も大変だね」
 「ま、これも仕事の一つよ」

 僕はおずおずと声をかける。

 「あの、良かったら僕も一緒に行っていいかな。あいつ、色々と抱えてるかもしれない」
 「あ……」

 美保さんが静かに眉を垂れた。

 「そういえば、療養所が燃えた夜、あいつからうちに電話がかかってたのよ。私、紅神様祭りに行ってたから電話受け取れなかったんだけど……あの電話ってもしかして、そのことを知らせたかったのかな」
 「僕のところにもかかったよ。そういえば焦ったような声だったな」

 彼からの電話を自分で切ったことなど、やましいことは全て伏せ、何食わぬ顔で言った。美保さんは浮かない顔だ。

 「……美保さんは悪くないよ」

 僕はまるで自分を慰めるようにつぶやいた。

 

[newpage]
 美保さんと校舎を出て、見晴らしのいい坂を下る。向かうは『彼』の家だ。ふと気になって、ぼくは彼女に問いかけた。

 「ねぇ、あの時、どうして僕に優しくしてくれたの」
 「どうして、って?」
 「ほら、初めて療養所で会った時……僕が絡まれてたところを、美保さんがたすけてくれたじゃないか」

 助けることなんかできなかったよ、と、美保さんは苦笑してつぶやいた。

 「谷崎くん、私の話聞いて思わなかった? 親は国会議員で自分も政治家志望なのに、どうしてこんな辺鄙な離島にいるのかって」
 「まぁ、少しは……」
 「うちの親、ぜんっぜん仲良くないんだ。お互いああいう職に就くくらいには強さも自信もあるから、それが噛み合ってるうちはいいんだけど、合わないと悲惨みたい。私の叔母さんこの島で民宿やってるから、そこでおいてもらってるの。だから谷崎くんのこと、他人事に思えなくてさ」

 美保さんの長い三つ編みが揺れた。

 「ごめんね。私のエゴだったね」

 彼女はそれでも笑っている。自分がどれだけ小さい人間かということをあらためて実感する。とうてい届くはずもない彼女のまぶしさに、ただ、閉口した。

 『彼』の家は、市街地から少し離れたところにある赤い屋根の家だった。貧乏だなんだの自嘲してはいたが汚くはない。
 美保さんが挨拶すると、扉が開き、『彼』の母らしき女性が応じた。目測で175センチ以上はある、威圧的な中年女性だ。銀髪をひっつめ髪にして、ラフなTシャツとジーンズを着ている。鋭い目をはじめ顔立ちに面影があった。

 「あら灯椿さん。うちの子の事?」
 「はい。今日学校お休みしてたから、心配になって……あ、起きられないようなら無理に会いませんけど」
 「休み? あの子が」

 女性は驚愕の表情になった。

 「朝制服で出て行ったし、夕方には帰ってきたのだけれど」
 「え? でも、今日いなかったよねぇ、谷崎くん」
 「公衆電話から欠席連絡あったって言うし、あいつ勝手に学校休んだんじゃないか」
 「中にいるから呼んでくるわね」

 肩をすくめて言うと、女性が家の奥へ引っ込んだ。その後すぐ、激しい怒声と罵声が聞こえてきたので、美保さんは半目になった。
 しばらくして、母親に連行されるようにして『彼』が出てきた。彼女は問い詰めるでもなく、導くような穏やかな口調で、

 「あなた、私とお友達にしゃんと説明しなさい。どういうことなの」
 「どうもこうもねぇよ」

 『彼』が突っぱねると、美保さんが慌てて言い繕った。彼は恋人を失った身だからだろう、かばおうと嘘をつく。

 「いや、いいんです。今日は補講の日で自由登校だったので、来なくても問題はないと……」
 「私はこの子が学校に行かなかったことを怒っているわけではありません。うちの血を引く男が、不誠実な態度を示したのが許せないんです」
 「でも、それは彼にも事情があったんだと……ねぇ?」

 その嘘を聞いても、母親は憤慨しているようだった。
 『彼』が小声で母親を罵ると、彼女が彼の身に肘鉄を食らわせた。見た目通りなかなか剛毅な女性だ。突かれた場所を押さえて、彼が吐き捨てる。

 「知るかよ。そんなの。俺ぁもうすぐ出かけるから」[newpage] 「出掛ける前に、今日の一件について説明しなさい! お父さんにも話しておきますからね」

 母親はそれだけ言って奥へ引っ込んだ。彼はうんざりと母を睨んで、次に僕達を見た。

 「何チクりに来てんだよ」
 「違うわよ。谷崎くんも私も、あんたを心配してきたのよ」
 「……ま、大丈夫そうだったみたいだけどね」

 僕は拍子抜けしてため息を吐いた。文島さんがいなくてもこんな調子なのは、突然のこと過ぎて実感がわかないからだろう。病で死ぬならまだしも、焼死、である。それを知りながら僕に詰め寄らない彼の精神は、まだまともなようだった。

『彼』が疲れ顔で言う。

 「もう帰れ。俺ぁこれから予定があんだ」
 「言われなくたって帰るよ。明日は学校に来れる? 今日と同じ手は通用しないよ。休みたいなら先生に事情を説明すればいいよ、きっと分かってくれるから。なんなら私が言っておこうか」
 「わかんねぇ」
 「そう。……無理、しないでね」

 過保護とさえ思える美保さんの言葉に、『彼』はそっけなく答えた。
 そしておもむろに顔を上げる。

 「こんなに心配してもらって悪ィんだが、その……これから俺に近付かないでくれるか」

 僕達は怪訝な顔になった。彼は落ち着かない風であちこち視線をさまよわせている。

 「どうしてなんだ? 文島さんのことか?」
 「理由は言えない。けど……しばらく俺に関わらないでほしいんだ。家族や、家にも」
 「理由が言えない理由は何?」
 「めんどくせぇこと聞くなよ……」

 『彼』が溜息をつく。

 「俺に近づくとお前らが危ない」
 「何だよ、その台詞」

 『彼』があまりにも深刻そうな顔だったので、僕は鼻で笑った。



 家に戻ると、母は泣きつかれて眠ったようだった。リビングのソファで眠る母にブランケットを掛け、洗い物を片付ける。途中、カップを取り落として割り、舌打ちをした。母ならばこんな失敗しないだろうになあ。
 父が死に抑圧から開放されたはずなのに、沈む母がどうしても理解できない。火加減を間違え、初めて作るカレーは鍋底で焦げ付いてしまった。

 その夜は、僕は図書館で借りてきた谷崎潤一郎の短編集を読んでいた。

 文島さんを偲ぶつもりだったが、やはり読書は苦手だ。

 

モドキ


 翌朝。
 夏の終わりの肌寒さで、僕は目覚めた。右手を天井に掲げ、

 「寝坊した」

 時刻は昼前だった。昨日ひどく夜更かししていたのが響いたらしい。
 母に学校を休むと告げると、複雑そうな表情をして了承してくれた。辛いとは思うけど、海でも見て気持ちを切り替えてきなさい、ということだろう。

 学校を休むのは僕の方ですよ、なーんて教師に言ってこれとは笑わせる。彼は今頃、学校に行っているだろうか。僕と同じように休んでしまったのだろうか。

 秋始めの金曜日、外は曇っていた。冷たく塩っぽい、雨の匂いが鼻腔を満たした。遠く水平線の向こうでは、船が小さくゆらいでいた。

 僕を捨てて、どこか遠くへ行ってしまいたい。例えば、あの海の向うに。
 この海を越えた先にある街は、難民と住民の軋轢だとかで治外法権の様相らしい。僕もあの街へ逃げてしまいたいものだ。

 風に煽られ、不意に山の方へ目をやった。あの坂道を上りきれば、変わらずに白い洋館があり、文島さんが待っているように思え、僕は療養所への道を歩き出した。初めて訪れたあの日と違い、汗もなく、踏みしめる足取りも確かだ。

 ――文島さん、君は僕を恨むだろう。でも、あの行動こそが正義だったんだ。

 やがて僕は道を辿り、開けた場所を視界に入れた。
 洋館があっただろう場所は、凄惨な焼け跡だけが残っていた。木々に囲まれた中で、大敗した焼け跡だけが異様に浮いていた。黒ずんだ柱や板があちらこちらに散らばっている。建物の柱だけが陰鬱な黒で残っていた。まさに、廃屋。
 僕は身をかがめ、地面に手を置く。火にあぶられたであろう砂利をやさしく撫ぜた。父の世界が壊れた愉悦に、思わず笑みが洩れる。僕の密やかな笑いはやがて笑い声になった。

 そんな僕に、後ろから思わぬ声がかかった。


 「――人生は、楽しいかい?」

 聞き慣れた声だ。しかし、この声がここに存在するはずがない。再度、少女が呼びかける。大変弾んだ声で、


 「此れもまぜてよ」


 よく知った声。


 ――文島希の声。


 冷や汗を垂れ流しながら振り返る。
 長い黒髪にシフォンの白ワンピースの少女が、冷ややかな目で僕を見ていた。前髪をぱっつんにして、赤い蓮の髪飾りを付けている。

 「どう、……して……」

 嗚咽に似た、掠れ声だけが出る。
 思わず血相を変え掴みかかると、細い身体は抵抗もせず地面に倒れた。僕は彼女の胸の上に馬乗りになり、首根っこをつかんで彼女の顔を見る。問い詰めようとして固まる。文島さんのはずだった。

[newpage]


  しかし『それ』は、――文島希ではなかった。

顔立ちと背格好は間違いなく文島さんだ。しかし吊り目は黒から不気味な金色に染まっている。ぱっつんに切った前髪の左半分を後ろに流し、蓮の髪留めで留めていた。顔横を隠していた横髪は、耳にかけて肩に流しているし、髪全体がきつい外ハネになっている。

 ……ならばこの少女は何者だ!?

 「大丈夫。君の死体愛好性癖は黙っておくよ」

 文島モドキの彼女は、にやりと酷薄な笑みを浮かべ、僕を見据えた。
 違う。文島さんの笑い方でも、口調でもない。

 「父の不倫から恋愛嫌いになり、逃避した先が死体性愛。父の仕事上、きみにとってそれらは身近なものだったからね。だから文島に谷崎潤一郎を進められた時、読書が嫌いなのにわざわざ調べたりして素直に手を出した。特殊性癖は自覚していたもの」
 「ちがう!! お前ッ……どこまで知ってる!? 一体何なんだよっ!?」
 「手を離し給え、少年」
 「療養所はこんなざまだから文島さんが生きているはずがない! 生きていたとしても、喋り方や眼の色が違うし、病気持ちなのに外でぴんぴんしてるのもおかしいし……なにより、どうして僕の恋愛対象について知ってるんだ!」
 「誰にも話したことがないのに?」

 モドキは嘲笑した。肩に雨粒がぽつぽつ当たった。

 「意味がわからない! ちゃんと説明しろ!」

 モドキはやれやれと頭を振る。

 「花火の日、君が帰った後、『彼』は文島希に告白したんだ。文島も彼に惹かれてたけど、自分には余命があるからと彼をつっぱねた。その後病室に戻った文島は、『自分の全てをあげるから、彼を幸せにしてあげて欲しい』と祈った」
 「うん」
 「そして此が降臨したんだよ」
 「いやだから降臨するまでの話を聞きたいんだけど。その話と君の登場には何も関係ないだろ」

 モドキは目を閉じてにかっと誇らしげな顔をした。
 そこで僕は、文島さんが蓮の髪飾りを千切り、空に捨てたことを思い出した。エジプトや仏教の世界では、蓮は神聖な花とされており、花言葉は「清らかな心」「神聖」「救ってください」。神に捧げる供物として不足はないだろう。

 「君は紅神様なのか」
 「神なんて谷崎らしくもないことを言うね。此は文島希であり、文島希ではない」
 「わからないな」
 「分からなくていいんだ。自分の知っているものに当てはめてまで無理に理解しようとするから、破綻して、放火なんてことが起こる!」

 モドキが挑戦的にこちらを見た。

 「……どこまで知ってる」

 またモドキを睨むうち、雨は段々激しさを増してきた。モドキは暗い空を眺め、それから僕を見た。

 「谷崎、場所を変えよう! 風邪は引きたくないだろ?」
 「逃げるなよ」
 「嫌だなぁ、逃げるわけがないだろう! 谷崎は友達じゃないか」
 「文島さんならともかく、文島モドキと友達になった覚えはない」

 吐き捨てて、彼女から退いた。モドキはゆっくり身を起こし、服の泥を払った。

[newpage]


 モドキの後をついて森に入り、雨の中をしばらく歩くと、洞穴にたどり着いた。石を組んで作られた階段を降り、木造りの扉を開く。
 扉の向こうには、木目調の六畳一間が広がっていた。部屋の内装はアメリカンヴィンテージといったところだろうか。あちこちにがらくたが放ってある。

 「モドキ、君はここに住んでるのか?」
 「どこだって住めば都さ!」

 おんぼろ冷蔵庫からマドレーヌの箱を取り出し、出涸らしの紅茶と一緒に寄越した。僕はマドレーヌを一つ手にとった。

 「さて、次は~~ぁ、君の罪を聞こう!」

 なんのことだ。震える声でなじると、モドキは相変わらずのニヤニヤ笑いで僕を見た。

 「ちょっと、馬鹿馬鹿ばかばか止めてよねぇ! 此から話をききたいというのなら、まず君から話をするのが常道だろう? さあ聞こうか、君の罪を――告解を――。全部、見えているんだよ?」

 うっとりと目を細める彼女に、背筋が粟立った。マドレーヌを齧り吐き捨てる。

 「そうだね。どうせ僕は文島さんに謝らなきゃいけないんだろ」
 「なんだ、やっと話す気になったのかい、谷崎!? 人生最初の初告白、初公判だねぇ! あぁ、ちなみに今の様子をテレビ中継して島全土に放送! なんてこたぁないから安心していいよ。此はただ聞きたいだけさ」

 モドキの笑い声が酷く滑稽に響いた。

 「しんりくんの!! ちょっと汚いとこ見てみたいっ! ざんげ! ざんげ! ざんげ! ざんげ!」

 モドキはハイテンションで囃し立てる。
 誰も居ないことを確認して、僕は菓子を嚥下し、モドキの金の瞳を見つめた。モドキがまばたきする。

 王様の耳はロバの耳。覚悟を決めて、僕は口を開いた。

 


「――文島希を殺したのはぼくだ」

 

 満足したのか、モドキが笑みを深くした。そうさね、と口を開き、

 「君は暴力と不倫を行う父を大層嫌っていた。そんな時、友人として認めた文島が『彼』と恋に落ちる。父の一件で恋愛嫌いな上、君は『彼』のことを見下していたから、二人が仲良くなるのが許せなかった。やがて君は文島さんの中の女性性に触れてしまい、無意識下で『彼と文島』を『父と弓子』に重ねて憎むようになった」
 「憎んでない」
 「けれど、二人を邪魔しようとしたのは本当。放火までやらかした。ここ重要」

 言い返せず、僕はマドレーヌを一口齧る。

 「そして花火大会が訪れる。父に罵られた上、弓子さんとの現場を見た君は、父への怒りを爆発させていた。そんな時、都都宮アサヒから渡された花火セットのライターを見て、君は放火を思いついた。警察は花火大会に、療養所スタッフは上階につきっきり、所長の息子とあって建物の構造も分かっている。犯行は容易だ」

 モドキの、新品の磁器のような歯が、マドレーヌを噛みちぎった。

 「だから君は燃やした。深い山の奥だし、田舎だからいい消火設備もなくて、小さな火種だったのが結局全焼に繋がってしまった。あの日はちょうど祭りがあったから人の目がなく、情報がなくてまだ足がついていないようだけど」
 「本当になんでも知ってるんだな」
 「君は底が浅いからねえ。大抵のことは見通せる」
 「底が浅いなんてきみのいうことじゃないだろう。文島さんは一つからかうと三十言い返すような、乗せられやすい女だったぜ。だからあんな狼少年に引っかかる。ろくでもないやつだったって最後まで見抜けずに死んでいった!」
 「乗せられやすいのは君も同じだねえ?」

 僕は舌打ちをする。モドキは髪を払って、けらけら笑った。しかしその後、一瞬だけ真剣な表情になる。

 「だけど不思議なんだ。君は全く罪悪感を感じさせないのに、ふと揺らぐことがある。まるで文島希に謝り、許しを請うみたいに! その気持ちのゆらぎはなんなんだ? 実に興味深い!」
 「思春期特有のなんたらだろうよ」
 「谷崎、君はまったくもってサイコパスだな!」
 「僕の周りの大人もみんなそうさ。さぁ、僕は話した。だから君も話せよ」

 僕は憮然として言った。風でドアがぎいぎいきしんだので、僕は振り返り、ドアを睨んだ。

 「ここは風に弱いな」
 「どうも風だけじゃあないようだよ?」

 ドアがみしりと反って、次の瞬間大きな音を立てて開いた。雨と暴風が一気に流れこむ。僕は腕で眼鏡をかばいながら、ドアの向こうを見つめた。

[newpage]


 「モドキ、君はこれからどうするんだ」
 「さあ。とりあえず、ほとぼりが冷めるまで見つからないようにここにいるつもりだ! どうせ捜査の手はここにまで及ぶだろうから、その頃になったらどこかへ引っ込まなくちゃあいけないんだが……谷崎、あてはあるかい? 君が放火したりしなければ、文島は療養所にいたままでよかったんだ、きみが責任を取れよ!」

 モドキは肩をすくめた。

 「子犬とはわけが違うんだから、僕の家に匿うなんてできない。おとなしくもとの文島さんに戻って、家族に引き取ってもらうことだな」

 そう言うとモドキは不服そうに眉をつめた。金の吊り目に睨みつけられ、僕は内心縮みあがりながら言った。

 「または、君の愛しい彼氏に頼めばいいよ」

 モドキが緩んだ笑顔に戻った。

 「そういえば、きみがここにいること、彼は知ってるのか」
 「知ってるも何も、廃棄物倉庫だったここを居心地よく改装して、トイレや風呂のあてまでつけて、食材からこんな服まで買ってきたのはあの子さ!」
 「よくそこまでできるな」
 「文島はずっと孤独で、あの子はずっと馬鹿にされて生きていた。そこへ谷崎! 君が、文島に彼を紹介したんだ! あの子は第一印象だけで文島を気に入って、足繁く通うようになった。文島は最初こそ、女性に不慣れで挙動不審な彼を弄んでいたけど、その内ひねくれた性格なりにあの子を愛するようになったんだ」

 モドキはキシシと笑って、菓子箱の蓋をまた開けた。

 「施設側からしたらただの熱心なボランティアだし、どっちみち経営は腐敗してグダグダだったから、二人が深い仲になるのを誰も止めなかった。ほら、障害がある恋って燃え上がるだろう? あの子はすっかり恋愛の虜だったし、彼女もまたそうだった」

 僕は貧乏揺すりを始める。

 「君が『降臨』したことについての詳細はもう聞かない。どうせはぐらかすだろうし。ただ、あいつが君を見つけたのはいつだ? 紅神様祭りで文島さんが死んだその夜か?」

 モドキはうんうんうなって、しばらくしてから僕の方を見た。

 「此れのほうは記憶が曖昧でよく覚えていないんだけど、翌日、新聞を見てあの子はここへすっ飛んできた――焼け跡近くを確認して帰ろうとしたが、なにせ茫然自失の状態だったから、迷いに迷ってここにたどり着いたんだ。そこで此れとあの子は会ったってわけ」
 「新聞ねぇ。怪我の功名ってやつか」

 僕は無意識に舌打ちをしていた。
 モドキの話を聞いてやっと、彼があまり沈んでいなかったことに納得した。彼の中から文島さんが失われていなければ、彼が沈む理由はない。

 「とすると、あいつは『モドキ』と『文島希』を同一視してるってことか。そんなのおかしい。君は文島さんじゃない。なのにあいつが『モドキ』を『文島希』に当てはめて愛するなんて、そんなの……そんなの、文島さんへの冒涜だ」

 僕が言うと、モドキは顔から表情を消した。息を吸い、僕はなおも続ける。

 「僕はぜったいに認めない。君は文島希じゃないんだ」

 繰り返して言うと、モドキは困ったような笑みでため息を吐いた。僕をじっと見つめながら、

 「まだ父の呪縛に囚われているのか。文島が死ねば、今度は此れを弓子に見立てるのかい? 此れや文島を都都宮弓子に当てはめて憎んでる君に、此れを文島に当てはめて愛するあの子を批判する資格はない。君は文島はじめ多くの人間を殺し、君の母やあの子に死別を突きつけた。父にどれだけ酷い目にあわされてようが、それは免罪符たりえない」

 モドキの言葉は、氷のような鋭さで僕を刺した。

 「君なら分かるはずだ。辛い思いをしているからといって、その分他人に辛くあたるのはまっとうじゃないということを。知り合いにいるだろう? そんなやつが」

 モドキの言葉に、一人の人間が脳裏に浮かんだ。

 ――灯椿美保。

 「……うん」
 「自分がまっとうに生きられなかったからこそ、強く生きる美保に好意を持ったんだろう。だが、君は美保になることは出来ないんだ。いい加減、母性存在から脱却し給え」


 モドキは一息ついて、空っぽになった茶器を部屋の隅の流しにぶち込んだ。
 確かに僕には彼女のような優しさが欠けている。美保さんが与えるのは無条件の慈しみと愛だ。だけど僕は、そのぬるま湯に浸かったままでは成長できない。
 ならばどうすればいいのか。

 ペットボトルにガソリンを詰めて療養所に赴いた時、これで僕は救われるのだとただ悦んでいたのだ。けれど、事態は異常になっただけで改善はしていない。僕は父の幻影に抑圧され、文島さんは死に、文島モドキと彼が愛し合い、母は暗くなり、クラスの心ない視線は強くなり、美保さんは荒波に立ち向かい続けている。
 本当の救済などどこにも存在しないのかもしれない。僕はもう、何に立ち向かう気力もなかった。

 「モドキ。明日もここに来てもいいか」
 「構わないけど、人目につかないように気をつけ給え!」

 右手でびしっと敬礼をしてから、モドキは付け加える。

 「あの子に会ったら気まずいだろう?」
 「いや、いいんだ。僕は彼に会わないとだめだ」

 決意の青白い焔が心にあるのを感じた。

 

偽善者

 「真理ちゃん、お客さん、来てるわよ。文島さんっていう方」

 扉を開けてすぐ、母が待ち構えたように言う。
 ぼくは危うく腰を抜かしかけた。トゥルー文島、文島モドキに次いで第三形態かよ。君はRPGのラスボスか!
 へどもどしている僕に母がたずねた。

 「高校生くらいの男の子だけど、お知り合い?」

 とすると、文島希の家族か。僕は安心して肩を落とした。母に案内されるまま僕は応接室のドアを開けた。洋風調度品に囲まれた部屋の中、ソファにはひとりの男性が座っていた。彼におじぎをする。

 「初めまして、谷崎君。僕は文島周二。……文島希の、二番目の兄です」

 文島周二、十七才。短髪を茶に染め、いかにも都会の高校生といった容貌だ。灰色のパーカーとジーンズの上に、淡い茶色のチェスターコートをまとっている。妹と違い気の弱そうな彼は立ち上がり、僕と母に何回もお辞儀をした。

 「はじめまして」
 「忙しい中、お邪魔してしまい申し訳ありません。実は、一つだけお話したいことがありまして」

 周二はおずおずとソーサーに口をつけた。外見の割に大人びた話し方だ。

 「希は身体の弱いのが気の強さに回ってしまい、素直になれない子でしたが、あなたに本当に感謝していたようです。この忙しいのに失礼だとは思いましたが、あなたに救われたのだとどうしてもお伝えしたくて」
 「僕は何もしてませんよ」

 僕はつい目を伏せた。周二ははにかんで笑った。

 「いいえ。希はあなたのことを手紙に書いてくれました。仲のいい男の子ができた、と」

 それは『彼』のことじゃないのか。ひどく気まずい。

 「お葬式はもう行われましたか」
 「ええ、密葬で……もっとも、家族で出たのは僕ぐらいで、入院前は友達だったけど疎遠になった方、休学していた学校のクラスメート、家の付き合いでいらっしゃった方ばかりで、寂しいものでした」
 「そう、なんですか……。あの蓮の髪飾りを贈ったのも周二さんですか? 希さん、はしゃいでましたよ」
 「そうかい。それならいかった」

 周二は心底嬉しそうに笑った。

 「希さんと仲は良かったんですか」
 「あ、ああ……今だから言えることですが、希はどうやら恋をしているようだったので、文島の家名に関わるからくだらない色恋沙汰は諦めろと勧めたんです。若いうちの恋なんて、過ちの連続ですから。――ああ、谷崎くんの恋愛を否定しているわけではありません。希は思い切ったら一直線で、その上自分に酔う子なんです。――それが原因かは分かりませんが、僕は妹にずいぶん嫌われたみたいで……」
 「仲直りは、出来なかったんですか」

 周二は悲しそうに目を伏せる。

 「なんとも情けない。考えてみれば、妹の人生には希望が必要だったんでしょう。僕達のようにまともな楽しみがない生活でしたから。妹が長生きできる身体ではないのはわかっていました。ですが、できることなら、きちんとお別れしたかったんです」

 それこそが、周二がこの島へ訪れた理由なんだろう。

 「希はもともと、文島の第三子、長女として生まれたんです。男兄弟ばかりだったからか、女らしからぬ生意気な子に育ちまして。僕なんか、口喧嘩ではいつもけちょんけちょんにされてたんです。発病してから死ぬまで、会うことはほとんどありませんでしたが」

 周二は懐かしむようにうつむいた。そこでやっと、実家での文島さんの扱いを悟った。
 恋愛沙汰や女らしさがどうのという話から、『古風な家での末娘』として慎ましやかに生きることを要求されていたのだろう。その上余命つきの入院という金食い虫でしかない身体。
 家での文島さんは扱いが軽いどころか、恨まれてすらいたのではないか。その証拠に、妹を可愛がっていた周二は、初対面の僕相手に思い出話をしている。

 そういえば文島さんと恋仲になった『彼』は、毎日のように彼女のもとに通っていたそうだ。長年放置されてひねくれた文島さんは、『彼』のまっすぐな好意にほだされたのかもしれない。

 「希さんはしっかりしたいい子でしたよ。周二さんが希さんを忘れないでいたこと、この島に来てくれたこと、きっと天国で喜んでると思います」[newpage]

 「そうか。……ありがとうございます」

 周二は何度もお礼を言い、生前文島さんが好きだったという高そうな菓子を押し付けて、一人で帰っていった。僕はポーチに突っ立って、周二の後ろ姿が小さくなっていくのを見送った。母が声を掛ける。

 「どうだったの? 何か言われた?」
 「べつに慰謝料の話じゃないから安心していいよ」
 「パパがいなくなっちゃってからママ、悪いことばっかりだわ」

 会話が成立していない。
 あれからずっと母の様子がおかしい。父を殺すということは収入を絶つということだ。実行犯たる僕は覚悟ができていたが、もちろん母は違う。自分の息子が父親を殺したとは夢にも思わず、ただ泣いては繰り言を言うばかりだった。

 「母さん、気分転換に働いてみたらどうかな。僕も高校に上がったら働くよ。もっと家賃の安いところに引っ越してみてもいい。貯金だけじゃ暮らしていけない」
 「なに……言ってるの? ママにここから引っ越せって言ってるの? 無理よ、そんなの嫌だわ。ご近所に馬鹿にされちゃう……ッ!!」
 「それより貯金を食いつぶして破産のほうがよっぽど酷い。母さんの実家にも頼れないんだ、僕達でどうにかするしかない」
 「ママは働けないわよ!」
 「そんなことあるかよ。父さんが縛ってたから母さんは働くことを許されなかった、でももう父さんは死んだんだ。母さんの好きにできる」
 「いやよ」

 母はわっとヒステリックに泣き出して、廊下の奥へ走り去っていった。
 その後ろ姿を見て、僕は失望感を覚えていた。
 僕は母の事を『父に抑圧された可哀想な女性』だと思っていたが、実態は、貧乏な暮らしを嫌って、父の権力と財産の庇護下でゆうゆうと暮らすクズでしかなかった。ずっと聖母のように思っていた母が寄生虫に思えてくる。
 時計は午後5時半を示していた。母はすぐに出前を頼むような怠惰だったので、父が死んで沈む今はさらに家事をしない。洗濯物と積もる汚れとで家が荒れていく。

 台所から千円を取って弁当屋に行った。秋の午後五時となると海沿いの道は閑散としており、紅神様祭りの名残などなかった。

 潮を孕んだ、生ぬるい風が吹く。

 僕のしたことは、果たして正しかったのだろうか。
 抑圧された僕と母を救うため、父に制裁を下すため、ムカつく『彼』を文島さんから引き剥がすため……。いろいろ理由はあったが、今となってはすべてこじつけに思えてきた。

 「誰か、助けてくれよ……」

 およそ自分らしからぬ細い声が漏れでた。

 二百円台の一番安い弁当をふたつ買い、その帰り道、僕は新聞を解約した。[newpage]

 睡眠薬精神安定剤、解熱鎮痛剤。いつからか、見慣れない薬の瓶が家に増えていることに気づいた。 それらは少しずつ母の身体と精神を蝕んでいくようだった。もはや薬か毒か分からない。
 僕といえば、モドキと会った日から一週間ずっと学校に行っていなかった。何もしたくないし、何かができるとも思えない。担任の電話番号を着信拒否にぶち込んでしばらく経つが、担任が家に来る気配はみじんもない。文化祭前だから忙しいんだろう。
 電気のついていないダイニングで、母と僕は向き合って座っていた。お昼のワイドショーだけがいやにかしましい。

 「しんりちゃぁん……ママ……もう……だめみたい……」

 酒の入ったカップを手に、母がぐずぐずと泣きついてきた。僕は深くため息をついた。

 「そうだね。もうみんなおしまいだ。死んでしまえばいいんだ」

 飲酒するたび、母の肌は赤と白の斑模様に染まる。皮膚はすでにボロボロに痛み、焦点の合わない目で空を見つめるばかりだ。ODと過剰な飲酒で臓器がいかれたらしい。まるで別人のようになった母をただ見つめる。

 「しんりちゃんッ……みんなママから逃げてくの……友達も、パパも、おとぉさんもおかぁさんもぉ……う゛ぅ……しんりちゃんは、いかないわよね、ぇ……」
 「行くもなにも、最初から父さんも僕もあなたのそばにはいなかったんだよ。僕達はもうとっくの昔からばらばらだったんだ」
 「うぅっ……うっ……」

 母が嗚咽する。夫に頼り切っていた寄生虫が壊れるのはあまりにも簡単だった。夫の死という困難に立ち向かうこともせず、薬と酒に逃避するだけの弱い存在。

 「……かあさん。どうしてこんな事になったんだろうね」

 生まれて一番最初に両親から与えて貰ったのは、この命だ。そして二番目に与えたのは『真理』というこの名前だ。どちらもきっと、気まぐれで与えたものじゃないはずだ。

 「ねぇ。父さんと母さんは、僕に何を望んだの」

 返事はない。
 僕は愛情の中で生まれたんだよね? 僕が生まれた時、二人は喜んでくれたんでしょう? ただ、両親にそう問いたかった。僕のこの命は、誰かに望まれて生まれてきたものだと思いたい。

 いいかげん僕は、僕という人間が本当に1人の人間なのか分からなくなってきた。
 僕はあの父の子供である前に、谷崎真理というひとりの人間なのだ。僕は僕自身のために生きていいはずなのに、今も父の生死に、幻影に左右され続けている。

 父を受け入れようと耐えていたあの日々が懐かしい。自分なりに必死に努力して生きてきたはずが、結局与えられた選択肢は唯一無二の友人をこの世から殺すというものだった。
 それでも、人は必ず分かり合える、なんて綺麗事を言うのだろうか。それとも僕が耐えてきたあの日々は、他人から見れば努力とすら呼べないのだろうか。

 いずれは父の遺産も尽きる。しかし、もう全てがどうでもよかった。ヤク中アル中の中年女に人殺しの少年。死んでしまった方が世間様のためだ。

 用法用量をお守りください、用法用量をお守りください、用法用量をお守りください――。薬のパッケージには、極太のゴシックでそう書いてある。どうにも、耳鳴りが止まらない。

 淀んだ時間だけが通り過ぎていく中、おもむろにインターホンが響いた。僕はぐったりしながらドアを開けた。

 「……あ。こんにちは」

 もうすっかり見慣れた人――けれど今だけは会いたくなかったその顔に、僕は声を上げた。

 「谷崎くん、こんにちは。プリント届けに来たよ」

 やって来たのは美保さんだった。まあ『彼』やモドキが僕の家に来るなんて未来永劫ある訳ないんだけど。
 来る途中に雨に濡れたようで、髪や制服が湿っていた。彼女は大きめの茶封筒を手渡してきた。

 「久しぶり」

 美保さんはそう言って、どこか寂しそうに笑った。休んでいる理由については何も触れずに、


 「結構プリントたまってたから、届けるの頼まれちゃった。文化祭で保護者参加の企画があるから、そのお知らせ。有志参加の合唱コンクールの楽譜も持ってきたけど、今からじゃ間に合わないかも」
 「いらないよ。歌はへたなんだ」
 「そうなんだ! 実は私も苦手なんだよねー。物凄い音痴なの! 無理やり引っ張り出されそうになったけど、なんとかかわしたよ」

 美保さんは照れくさそうに目を細めた。

 「良かったね。有志参加っていっても、先生の押し付けとか周りの目のせいで、結局気が進まない人まで出ることになったりするよな」
 「そうそう! 本当、困っちゃうよね」

 声を潜めて二人で笑いあった。僕は彼女に声を掛ける。

 「なんだか意外だ。美保さんは何でも器用にこなす印象だったのに」
 「買いかぶりだよー」

 彼女はゆるゆる首を振った。

 「文化祭か。この前紅神様祭りをやったばかりなのにな」

 美保さんが、早いよねえ、と相槌を打った。そして今度は自分の鞄からプリントを取り出す。

 「文化祭に向けて、月曜日に校内一斉清掃があるから、その割り振り持ってきた。谷崎くんの担当は三階の男子トイレだよ」
 「へぇ。今日決めたのか」

 彼女はプリントから顔を上げる。

 「うん。谷崎くんの担当、あいつも一緒だよ」

 「……は?」
 「あいつも今日学校休んだんだ。だから、休みの人二人、男子トイレに当てはめる形で。丁度いいでしょ?」

 いや良くないから。
 『彼』は今日も、学校を休んでモドキハウスに通ってるのか? 人見知りだなんて言っておいて彼女にはデレデレかよ。学生の本分に集中しろ脳筋ゴリラめ!
 内心歯ぎしりしていると、美保さんが、

 「谷崎くん? なにブツブツ言ってるの?」
 「あ、いや、あいつとは積もる話があるなあって」

 僕は苦笑いした。
 落ち着いて考えると、確かに彼には聞きたいことがあった。モドキについて、あの廃倉庫について、あとは、近づくななんて言い出した理由。

 「そういえば外、雨振ってたんだな。僕が休んでプリント溜めたりしたから、まっすぐ家に帰れなかったよな。ごめんね」

 謝ると、美保さんはわたわたと手を振った。

 「そんなことないよ! 谷崎くん、病気とかになってないみたいで私も安心したし、どうせ夕食の買い物で寄り道する予定だったから」
 「……そっか。ありがとう」
 「うん。また来れるようになったら、登校してね。待ってるよ」

 じゃあね、と美保さんが手を振る。
 ぼくはなんて愚かなのだろう。ただ家で腐るばかりで、美保さんに余計な手間までかけた。放火の犯人が僕だということを告げたら、美保さんは何と言うだろう。
 数秒置いて、僕はひとりで舌打ちをした。堕落していくのは僕だけで十分だ。プリントを袋から出し、明日からはまともに、とつぶやいた。

 

スフィンクスオイディプス

 相変わらずの雨模様。僕はひっそりと溜息をついた。
 学校はまずまずだった。美保さんは気を使ってくれたし、中学最後の文化祭も近いから、クラスみんながピリピリしてて、僕なんかに構っている余裕はないようだった。

 午前中の清掃が終わって、僕は学校から直接モドキの住処に行くことにした。『彼』に出会わないか怯えていたが、来なければ警察に全てバラすと脅されたので仕方ない。

 僕は制服姿に傘一本で、雨の中を寂しく歩いていた。秋雨に包まれ、森は灰色に染まっていた。モドキの住処の前で傘をたたみ、それからゴミ溜めみたいな色の空を眺めた。この道をたどるのはもう何回目だろう。僕は下草を踏み分け、洞穴の奥の扉を目指した。
 一見すると洞窟にしか見えない入り口だが、見た目より奥行きはない。モドキによれば、かなり前に廃棄物倉庫として使われていたそうだ。しかし、こんな山奥の洞穴の奥に何を捨てるというんだろう……まるで、何かを隠すような……。
 ふと浮かんだ考えがあまりにも滑稽すぎて、僕は首を振りながらひとり笑いした。

 扉を開いた。
 部屋の隅に古びた診察台がある。黒髪の少女が寝そべって読書をしていた。ドアが開く音を聞くと、彼女は入り口の方を見て顔を輝かせた。

 「やあ! ……あっ、谷崎じゃないか」
 「あのバカじゃなくて悪かったな。呼んだのは君だろう」

 僕は溜息混じりに返す。

 「いいや、君と話がしたかったんだ」

 モドキは本を閉じた。細い身体が、診察台からひょいと飛び降りた。バランスを崩して転ぶものの、素早く立ち上がる。

 「モドキになっても読書とは殊勝だな。何を読んでるんだ?」
 「ドグラ・マグラ……」

 モドキはワンピースの汚れを払いながら応えた。

 「聞いたことないな」

 テーブルに紅茶と洋菓子をしつらえ、あぐらをかいて床に座った。彼女は身を乗り出し、目をキラキラさせて言った。

 「それで? 学校はどうだったんだい!? 此れは、学校なんて行ったことないものだから、大変興味があるんだ!」
 「ろくな所じゃない。……今までけっこう成績が良かった僕が不登校どん底まで転げ落ちたもんだから、反面教師にはしてもらってるらしい」

 語尾を濁してから、自嘲して付け加える。

 「今日の清掃は最悪だったよ」

 モドキは軽く鼻を鳴らした。

 「君はまだどん底にはいないな! 本物の泥を舐めてから言い給え」

 モドキが口に手を当てて笑う。僕は小憎らしさを感じて、歯で唇を何回も引っ掻いた。

 「揚げ足を取るなよ。それより、あの暴れ犬はどうなってんだ! トイレに入るなりいきなりポリバケツを投げつけてきやがった、そしたらあいつ、なんて言ったと思う!」
 「水汲んでこい、とかかい」
 「違う。何も言わずに睨みながら、顎をしゃくって終わりだぜ。掃除中もずっと無言ときた。僕にどれだけ敵愾心を抱いてるんだ」
 「ひひひひひ! 君のしでかしたことを理解していれば、態度が硬化するのも仕方がないと思うけどなぁ~~谷崎ぃ! 自分の恋人の寝込みに火をつけたんだよ!? 導火線が短いどころか、体全体が起爆剤のあの子にしちゃあよく堪えた方だ。全身複雑骨折よりはマシだと思えよ!」

 モドキは目をいっぱいに開いて笑う。彼女の話に、全身の血の気が一瞬で引いた。僕は焦りを露わにして、彼女に掴みかかる。

 「モドキ、お前……あいつに全部バラしたのか」
 「ひひひ! 責めるな谷崎。それは此れの意思であり文島の意思だったのさ!」

 白い肩が声に合わせて揺れる。

 「ふざけるな! 君が警察に言わなくたって、あのおつむの足りない馬鹿犬がたれこむかも知れないだろう」
 「だぁーからって、何の問題があるんだい? 恋人を殺された青年がその犯人を警察に言う、ただそれだけだ。君は罪を犯したし、そしてそれを知っている。だいたい前科が付いたからって、君に輝かしい未来はあるのか?」

 僕は返答に詰まった。下腹部に鉛のような重苦しいさを感じる。モドキはふふ、とうつむいて、不気味な薄笑いを顔面に貼り付けた。そのまま猫なで声で語りかける。

 「もうどうしようもないんだよ。罪を自白して警察のお世話になるか、あるいは罪と母親を抱えて生き続けるか……二つに一つなのは、もうわかってるだろ?」
 「違う、ちょっとボヤ騒ぎを起こして、困らせてやろうと思っただけなんだ! 本当に殺そうなんて思ってなかった。あんなに小さな火種で全焼するなんて思ってなかったんだ!」
 「あーのーなぁ、今更君は何を言ってるのかなぁ? 『小さな火種でも全焼する』ような所を熟知した上で、ペットボトルを仕掛けたのは君だろう」
 「っ、……ああ」

 彼女はティーポットから紅茶を注ぎ、自分のカップに口をつけた。僕は力が抜けてうなだれ、髪の毛をくしゃくしゃ掻いた。

 「確かに、そうだな。僕は、周二さん――文島さんのお兄さんに会った。彼はほんとうに実直に、君を悼んでいた。僕の目に映らないだけで、僕は周二さんのような人をたくさん生んでしまったんだろう」

 モドキは一瞬、豆鉄砲で撃たれた鳩のような表情になった。それからぎこちなく口角を上げて、言葉をつなぐ。

 「ああ、全ては君のエゴのせいだな! これから誰のために何ができるか、しっかり考えておくことだ!」

 いやに声のトーンを高くしてモドキが言う。僕はどうしようもなくなって、しらけて笑った。そうだ。もう僕の人生は崖っぷちなんだ。このまま行き着く先はただの犯罪者か――、あるいは。

 「なぁ、今日はもう帰っていいか。母さんと僕の夕食を買わないといけないんだ」
 「はぁぁぁ~~? 何のために来たものかわからないじゃないか! 君に話さなければいけないことがあったのに」
 「本の感想ならあいつにでもすればいいだろ」
 「そうじゃないんだ……」

 モドキは歯がゆそうに地団駄を踏んだ。僕は嘆息してドアを開ける。

 「あ」

 外にいた人影を見て、モドキが声を上げた。[newpage]

 「やあ」
 モドキが片手を上げ、声をかけた。
 扉の外にいたその人は、息を飲んで立ち尽くした。大きく開かれた瞳に、白ワンピース姿のモドキと、唖然とする僕が交互に映った。それからその人は、不安そうに手を頬に当ててつぶやいた。

 「あっ、た……谷崎、くん……」

 首を傾げる動きと同時に、樺色がかった三つ編みが背中を滑り落ちた。泥まみれのローファーが枯れ葉を踏む音。入り口近くで、美保さんがこちらを伺うようにして立っていた。

 「……どうしてここが分かったんだ」

 僕はできるだけ感情を抑えて訊いた。握りしめた拳が震えているのを見て、その人はおどおどと事情を説明した。

 「あ、た、谷崎くんが今日、やっと来てくれたから、でもお家で1人だし、何かできないかなって思って、それで――」
 「後を付けてたのか!?」
 「ごめんなさい。でも、谷崎くんを虐めたかったわけじゃないの」

 美保さんは怯えて背中を縮めた。

 「お父さんの療養所を訪ねようとしたのかな、って思って、でも雨の中、こんな森に入ったら危ないから、だから」
 「それはこそこそ後をつけてもいい理由として成立するのか」
 「……ごめんなさい。何を言ってもただの言い訳だね」

 悄然としてうなだれる姿を見て、心がちくちく傷んだ。水で重くなった前髪が、彼女の頬にべったりと張り付いていた。
 美保さんは他人の僕のことをここまで心配してくれているのに、僕といえば文島さんや父を殺し、母や『彼』を傷つけ、それなのに何の罰も受けずここに立っている。許されるはずがない。もう分かっていた。僕のしたことは、一片の正しさもないのだ。
 僕は腹を決めて、こわばった声音で彼女に呼びかけた。

 「もう僕のことなんて心配しなくていいよ」

 美保さんは雷に撃たれたように顔を上げた。意外にも彼女は食い下がる。

 「余計なお節介は、やめるようにする。でも心配するのは、私の勝手だから……声かけるくらいは、させて」
 「わからないのかよ。そういうのが、お節介なんだ」

 美保さんは右手で額を覆って、張り付いた前髪を掻き上げた。

 「本当は、本当に、本当に谷崎くんが心配なの。でも何て言ってあげれば、谷崎くんの力になれるのかわからないの。ねえ、私にできることって本当になにもないのかなぁっ。話を聞くくらいのことも、お節介なの?」
 「迷惑なんだよ! 僕は、そういう偽善者ぶったところが――」
 「谷崎ッ!」

 モドキが、身体に似合わないくらい強い力で僕の手を引いた。よろめくが、すぐにモドキを怒鳴りつける。

 「何するんだ!」
 「谷崎、きみは愚かきわまりないことを言った!」

 モドキは珍しく激怒していた。小さな肩をいっぱいに怒らせる彼女に狼狽え、僕は舌打ちをする。美保さんは今にも泣き出しそうな顔で僕達を眺めていたが、やがて口を開いた。

 「ごめんね。最初から全部わたしのせいだから、その……怒らなくていいよ。谷崎くんのことを考えてたつもりだったけど、わたし、何も分かってなかった」

 美保さんは踵を返し、霧雨の降る闇の中へ姿をくらました。引きとめて謝る暇も無かった。モドキはまだ、僕の手首をきつく握りしめている。離すように言うと、彼女は僕を見上げてきた。

 「谷崎、きみはなにをかんがえていたの」

 重々しい口調でモドキが問うた。

 「もしかして君は、つみのいしきに酔うあまり、こどくをえらぼうとして、美保を突き放したのではないかな。じぶんに気づかってくれている彼女に報いたいと思うのなら、おかしたつみを正直に告白すべきだから。みほは正義感が人一倍つよいから、隠し続けて後々にばれるほうがきずつくものね」
 「馬鹿言うなよ」

 鼻で笑うと、モドキは数秒掛けて、表情を真顔へと塗り替えた。口調はひどく眠そうだったが、その目からはなにか強い力が感じられた。金の瞳が僕を強く射る。

 「やっぱり、まるであわせかがみみたい」

 すっかり睡魔に侵されて、彼女の口調はとろんとしている。僕は彼女のいう意味が分からず、怪訝な目で彼女を探った。意思のつかめないあの視線で、じっとりと見つめられているのが分かった。

 「そっくり」

 ぽつりと放たれた言葉は、まるでひとりごとのようだった。湿った空に、彼女の台詞が虚しく溶け崩れた。モドキは僕を蔑むように見て、それから扉を開き、ふらふらと中へ入っていった。白いワンピースを覆うように黒髪がなびく。頼りないくらい小さな背中が扉で見えなくなり、僕はひとり入り口へ残された。

 

 自首をしよう。僕は暗い道路を歩みながら考えた。
 みんなは疑うだろう。しかし、部屋を探せばペットボトルや灯油の残りが出てくるし、アリバイもない。そしてあの時僕は、油をペットボトルに詰め込んで、先に新聞紙を詰め込み火を点けた。方法と火元場所は僕ぐらいしか知らないだろう。
 僕はずっと、父のような人間にはなりたくないと思い続けていた。しかし僕も、所詮あの父の息子だった。エゴに塗れた血がこのからだを巡っているのだ。
 『逃避するのはよくない』。そうだな、モドキ。僕は間違っていた。
 ふと顔を上げると、遠くに弁当屋の明かりが見えた。最近めっきり日暮れが早くなった気がする。母の分の弁当も買っておかなければ……。今日と、自首する明日の分と。僕が父を殺したと知ったら、いよいよ母は狂ってしまうかもしれない。
 弁当屋の狭苦しい店内では、中年の女性店員が暇そうにテレビを見ていた。
 「すみません。A弁当を三つ」
 「三つ……ああ、はいはい……」

 完全にテレビに気を取られたままのおばさんは、奥の棚に引っ込んで何やらごそごそしていた。しかし、訛りの強い口調で、

 「すまんねえぼく、Aセットは今一つしかないみたいなんよ。追加分がすぐできあがるから、待っといてな」

 それなら別のにしますと言いたかったが、おばさんに店内のソファを勧められたので、仕方なくそこに腰掛けた。マガジンラックから新聞を取る。
[newpage]


 地方紙の一面は、政治家の不正献金問題や、本土の隣市治安悪化についての記事などがいくつか並んでいた。テレビをザッピングするように新聞を捲っていたが、ある一点に、瞳が吸い寄せられた。父の療養所が燃えてしまった、あの日についての記事だった。
 まあ記事が載ったっておかしくないよな。僕は記事を読み始めるものの、記事のタイトルが引っかかった。

 『このようなガス爆発事故を防ぐための方法を探る』

 爆発事故? 息が詰まるのが分かった。意図せず眼球に力が入ってしまう。さらに記事を読み進めた。
 記事は、療養所が燃えた事件を『プロパンガスの爆発』として扱い、施設の管理体制や、不完全な消火設備を野放しにしていた地元行政・消防について糾弾するシリーズ連載だった。
 書いてある内容はもっともだが、前提がおかしい。馬鹿な。あれは僕が火種をばら撒いて引き起こした事件なんだ。どうして、『プロパンガスの爆発』なんてことに仕立て上げられているんだ!?
 僕は新聞をマガジンラックに突っ込んで立ち上がった。店先の固定電話を借り、文島家に電話を掛けた。何回かのコールの後電話がつながり、周二に取り次いでもらった。家族で夕食中だったらしい彼は、不思議そうに聞いてくる。

 『谷崎さん……? どうかしましたか』
 「もしもし、周二さん、今お時間よろしいでしょうか。さっき新聞で見たんですが、希さんが亡くなった火事の原因は、何だと聞かされましたか?」
 『何って、プロパンガスの爆発と聞いていましたが』

 問い詰められ、周二が弱々しく答えた。

 『警察や他の人から、聞かされていなかったんですか? 新聞でもそう報道されていますよ』
 「いや、つい先日、新聞を解約したんです……」

 それにしたっておかしな話だ。紅神様祭りの翌朝、火事の原因について母は確かに放火だと言った。それがなぜ、今更ガス爆発なんてことになっている? そんなもの、現場の有様を見ていれば、間違えるわけがない。

 「プロパンガスって、そんなはずはないのに! あれは人為的に引き起こされた事件なんです」
 『ええっ……僕はそうは思いませんが……。もし療養所全焼が事故ではなく事件だとしたら、もうとっくの昔に犯人は挙げられていると思います。小さな町、限られた時間の中での犯行ですし……』

 周二はぼそぼそと呟いた。

 「周二さん! もう焼け跡には行かれましたか?」
 『ええ、あの日の帰り道に、希の好きだった花を供えようと思いまして。捜査も忙しそうでしたし、手を合わせたくらいで、そんなにじっくりとは見てはいませんが……』
 「ならあんただって分かるはずだ! 事故のはずない!」
 『えっ、そんなこと僕に言われても困ります……』

 電話口から分かるくらい、彼は狼狽えていた。周二さんの性格とこの口調からして、嘘をついているようには思えない。

 『お気持ちは痛いほど分かります。僕も希の死について聞かされた時、疑いを捨て切れませんでした。ですが、希はもういないんです。あなたのお父さんも』

 ――違う、そうじゃないんだ。
 いくら地方紙でも新聞は本当だし、誤報としても周二の言い分がある。だが、療養所に放火したのはこの僕だし、母だって放火と口にしていた。矛盾が生じている。
 犯人が見つからないので事故として捜査を切り替えた事も考えられるが、放火をプロパンガスの爆発に、というのはこじつけが過ぎている。冷や汗が出ていた。
 とりあえず、今はここにいる場合じゃない。

 『谷崎さん?』
 「ありがとうございました。変なことを訊いてしまってすみません。あとでお話聞かせてください」

 僕は電話を切り、店員も気にかけず一目散に外へ飛び出した。[newpage]
 弁当屋を出て向かった先は、島に一つだけある警察署だった。警察署とはいっても、見た目や設備は派出所に近い。海沿いにぽつんと浮かび上がるその建物に滑り込んだ。中はすでにストーブが用意されておりほのかに温かい。額の汗を拭った。

 「あの、一つだけ聞きたいことがあって」
 「どうしたんかね」

 派出所の中では、若い警察官が暇そうに座り、インスタントラーメンをすすっている最中だった。肩で息をしながら言うと、警官は立ち上がり、訛りのある口調で、僕を優しくなだめた。

 「夏に、山奥の療養所が燃えた事件がありましたよね」
 「あったけど、それがどうかしたんか」
 「あれは、プロパンガスの事故だったんですか」
 「そうだけど」

 僕はくらくらしてきた。警官は不思議そうに僕を見ている。

 「じゃあ、あれが事故って本当だったんですか!?」
 「そうだよ。新聞読んでないのか?連日特集されてるし、今日の一面にだって出とうたぞ」
 「新聞は、ついこの前解約したんです……」

 僕はうつむいて、消え入りそうな声でつぶやいた。そしておもむろに顔を上げて、

 「あれ、ぼくがやったんです」

 警官は、驚きから目と口をいっぱいに開いたが、それをごまかすように笑った。

 「あのね、大人をからかっちゃいけんよ。あの火災では何人かが亡くなっておられるんだ。いたずらにしろ、言う内容と相手を選びなさい」

 予想できた返答に、腹がちくちく痛んだ。真剣な決意だったはずが、この状況ではただの異常者か悪戯っ子だ。
 警官のほうは眉間にしわを寄せていた。大方、世間知らずのクラスのみそっかすが、罰ゲームに駆り出されたとでも考えているらしい。これ以上何か詮索されても面倒なので、僕は素直に謝った。彼は疲れて頬を掻き、僕と扉の外を交互に見た。

 「とりあえず、もう外も真っ暗だし、親の人を呼ぼうか。きみ、名前は?」
 「親に連絡するのはやめてください!」

 あのやつれた母を電話口に出したくないので、思わず大きな声が出てしまった。

 「じゃあお巡りさんが送っていくよ。本土の移民のごたごたの余波で、この島も物騒なんだ。最近は妙なガイジンもうろついてるそうだし……」

 田舎育ちらしい彼は大きくのびをしたが、それを無理矢理に断った。去り際、頭を下げて謝る。

 「変なこと言っちゃってすみませんでした」


 詰め所を追い出され、僕は歯で唇の裏を扱いた。
 もう本当になにがなんだかわからない。文島モドキも、あの夜の火事も、全てが夢なのか? そんなはずはない、そんなはずはないんだ……。



 学校では文化祭の用意が着々と進んでいるらしかった。今日は体育館でステージの設営をしなければならない。校内清掃と同じ割り振りなので、僕はまたあいつと一緒だった。
 合唱コンクールで使うひな壇を倉庫から運ぶ仕事である。当然もやしっ子には向いていない。
 まず全員が体育館に集められ、準備についての説明を受けた。ここにいる全ての人間が、あの火災を『事故』と考えているならばただ恐ろしい。僕は担任からひな壇の配置図と鍵を受けとった。

 「谷崎」

 担任に名前を呼ばれ、無言で顔を上げる。

 「お前、大丈夫か? 最近休みがちだし、家に電話しても誰も出ないようだし……。お家のこともあって辛いのはわかるが、お前は受験生なんだ。そろそろ三者面談の日程も組まなくちゃいけない。いつまでも事故のことを引きずるわけにもいかないだろ。お前は頭がいい。せっかく能力があるんだから、向上心を持つべきだ。本土の高校でも目指してみないか」
 「ごめんなさい。今は、そういうこと、考えられないんです」

 謝れば、担任は息をついた。

 「行きたい大学とか、夢とかはないのか?」
 「まだ考えられないです」

 言葉を濁す。担任は意外そうに声を漏らし、腕組みをした。

 「ま、まだ中学生だから将来の夢なんかは変わったっていい。ただ、上を目指すことだな。後で選択肢が広がる。俺はな、谷崎は医者に向いていると思うぞ。理系科目、得意だろう」
 「父の跡を継げってことですか」
 「そういうわけじゃない。お前は人助けをすべきだと思うんだ」

 揺さぶられる。まっさらな期待から生まれたその言葉が、純粋に心を掴んだ。

 「何か気がかりなことがあったら、なりふり構わず立ち向かうのがいちばんいい。人生は思うようにいかないことばっかりだ。お前が今感じてる苦しみを克服した先輩は、いっぱいいると思うぞ」

 担任は僕の肩を優しく叩いて、体育館から出て行った。肩に残る熱が有りがたい。
 しかし、学校ではこのざま、家庭内にも居場所はなく、罪を吐露することさえ許されない中、僕が向くべき『前』はどこなのだろう。
 気持ちはまた沈みかけていたが、気持ちを立てなおして『彼』を探す。どこでも目立つ『彼』の姿はすぐに見つかった。倉庫の扉の前で待ちくたびれた様子だったので、鍵を開けてやる。しかし扉をあけた瞬間背中を突き飛ばされ、中のマットの上に倒れこんだ。

 

コントラスト

 彼は倉庫の扉を閉め、僕の上に馬乗りになった。右手を振りかぶり、僕の頬を殴る。低く細い声で罵られる。

 「気分はどうだよ、人殺し。よくそんな平気な顔で学校来てられんな」

 マットの上で首を絞められ、浅い息が唇から漏れた。抜け出そうとして必死にもがくと、体勢を立て直した彼に腹を蹴り飛ばされた。そのままバレーボールのネット支柱で背中を打ち付け、力なく崩れ落ちる。重い一撃の入った腹が熱を持って痛む。抗議の目で彼を見やった。

 「……いたい」
 「だろうな」

 彼はそう言って、跳び箱の上に座った。

 「俺は手前がきらいだ。大嫌いだ! 文島を殺そうとしたのも、放火したのも、それが誰にも批判されないのも許せねぇ。だから殴った」

 そして、青の混じった灰色の目で僕をえぐる。

 「俺の言うことが間違ってんなら殴り返してみろよ。もし俺の誤解なら謝るし受け止める」

 僕は痛む身体を無理に起こし、殴られた頬をさすりながらよろよろと立ち上がった。彼はそのさまを威圧するように眺める。

 「君なんかに言われなくても、僕はもうわかってるんだ。馬鹿なことをした。でももう僕はモドキについても火事の後始末についても、どうしたらいいのかわからない。君のほうは結局、文島モドキについてどう考えてるんだ」
 「モドキ?」

 彼が顔を歪めて聞き返す。

 「倉庫に棲みつく文島モドキだよ」
 「違う、あれは文島だ。少なくとも文島のこころを持ってる。俺が最初に会ったとき、涙目で詰ったんだ。私が死にそうになってたのに、あなたったら何をしてたのって」
 「ほだされたな。あれ、どうするつもりなんだ。ずっと倉庫に閉じ込めるのか?」

 片頬でせせら笑った。すると彼は獣の目をして、僕に憎悪を傾ける。さすがにまた殴ってはこなかったが、

 「手前こそ、火災の後始末はどうするつもりなんだよ。そのことについて話したくて、文島に手前を呼び出してもらったのに、美保に文島のことがバレるわ、手前は逃げ帰っちまうわで最悪だったんだぜ」

 美保さんを突き放してしまったことが思い出され、とたんに苦い気持ちになる。

 「その日についてはもう忘れてくれ。言いたいことなんてここで言えばいいだろ。昨日自首しようとしたんだけど、巷じゃあの事故は『プロパンガスの爆発事故』ってことになってるらしい。どういう事だよ! どうして事故なんてことになってるんだ」
 「それを話したかったんだ。――俺の伯父さんが揉み消してくれたんだ」

 彼の言っている意味が分からず、僕は首をひねる。彼は姿勢を崩して話し始めた。

 「俺、伯父さんちの養子にならねぇかって、ずっと誘われてたんだ」
 「伯父さん?」
 「あぁ。俺のおふくろの弟なんだ。伯父さんは、本国で家業を継いで、かなり金も力も持ってたんだが、自分には子供がいなかったんだ。だから甥の俺をかわいがってくれてたんだが、今年に入って、養子になれってしつこく言ってくるようになってよ。伯父さん、ろくな奴じゃねぇから、皆に近づけたくなくて黙ってたんだ」

 俺に近づくなというあのセリフ、警官の言っていた『怪しいガイジン』――ピースが音を立ててはまった気がした。彼は淡い銀の髪を掻きながら、

 「俺んち、裕福じゃねぇよな。だから、俺が伯父さんの養子になる代わりに、うちに金を入れてくれねぇかっていう話が、おふくろと伯父さんの間で進んでたんだ。伯父さんのとこに行けば、本国の学校に通わせてくれるらしいし、家を助けられるならいい話だと思ってた」

 彼は跳び箱の端を手で撫でた。

 「でもよ、俺は遠い外国で、伯父さんの期待に応えてやってける自信がなかったんだ。俺は喧嘩ぐれぇしか取り柄がねぇしよ、本国の言葉も全く分かんねぇ。それに、なにより希を置いていきたくなかったんだ。美保や手前に頼んでも、絶対に反対されて、首都の家族のとこへ返されちまう。したらもう、二度と会えねぇ」

 聞きながら、そういえばこいつは人見知りであることを思い返す。文島と、希という呼称が交じるセリフが憎らしい。

 「だから俺ぁ、伯父さんに養子の話を白紙に戻してもらうように頼んだんだ。伯父さんかんかんだったから、学校まで行かせるって言われてんのに嘘つくのは良くねぇと思って、文島のことも全部喋っちまった――。したらよ、俺が養子に入る話はいいから、希に俺とのガキ産ませて、それを養子にすればいいって言い出したんだよ」
 「そんなこと……」
 「伯父さんには、火事のことも全部握り潰して、俺と文島が家に縛られないように援助してやるからって……そっちの方が、俺にも希にも、伯父さんにも幸せなんだって、言われた。最初は俺も半信半疑だったんだ。でもじっさい、みんな事故だって報道されて信じこんでる」
 「伯父さん、か。詭弁だな」

 僕は冷たい目で彼を見た。ただ養子が欲しいだけならそこまでするわけが無い。

 「ああ。俺もそれだけじゃねぇのは分かってる。伯父さんは、文島が死を免れたことを知ってる。そんな奴めったにいねぇだろ。文島の血を引いた子供を利用する気なんだ。その証拠に、特異な子供が生まれるまでいくらでも援助してやるって言いやがった」
 「そこまで分かってたのに断りきれなかったのか!?」
 「伯父さんには逆らえねぇよ。あのタヌキおやじが欲しいのは、文島の子供であって俺の子供じゃねぇ。俺ならともかく、文島に乱暴されちゃかなわねぇよ。……それによ、いつまでも希をあそこに置いてくわけにはいかねぇしな」

 彼は肩を落としながら絞り出した。

 「ふざけるな。君は見事なまでの糞野郎だな。僕は君なんかに殴られる筋合いはなかった。結局全部甘えじゃないか」

 彼のざかざかした眉が吊り上がるが、構わずまくし立てた。

 「女と一緒にいたいばかりにせっかくの話も断って、いざ代替案を出されれば難癖をつけて拒否する。どこまで子供なんだ。なにより、モドキは文島さんじゃないんだ。別の女の子を死んだ恋人に見立てて愛するなんて、モドキにも文島さんにも失礼だと思わないのか!」
 「その恋人を殺したのはどこの誰なんだろうなぁ!? 谷崎、あれは文島だ。……文島にそっくりな声で、あの顔で笑うから……真実がどうであれ、俺は文島だと思いたい……騙されていたいんだ……」

 僕は肩を怒らせて言い返す。

 「そんなのゆるせない! 僕はモドキのことも全部話すからな! 君ももっと自立しろ!」

 数秒、沈黙が続いた。遠くから美保さんの声が聴こえる。僕たちはこんなにもぶつかり合っているというのに、外から聞こえるみんなの声は朗らかだった。僕はどうにも気まずくて、荒れた息を整えるくらいしか出来なかった。
 彼は跳び箱から降り、引きつった声を出した。諦めの混じったような乾いた声。

 「俺から又、文島を奪うのか」

 それは彼の、慟哭の一端だろう。

[newpage]


 「逃げるのかよ」

 僕は尻餅をついたまま叫んだ。倉庫の外で上級生が怯えたような視線を送る。

 「わからないな!どうしてそんなに文島さんを求めるんだ!?」

 『彼』が肩越しにガンをつける。青色がかった灰色の瞳が、反抗的な色を持っている。

 「手前、今まで人を好きになったことなんてねぇだろう」
 「君こそ、文島さんへの純粋な気持ちなんか持ってないんだろ!?君の伯父さんみたいに。きみこそ……自尊心を満たすために彼女を利用するな」

 父のように、と言いかけた言葉を飲み込む。彼は獣のように歯を剥いた。

 「やめろよ、そういうの。自分の手に入らないからって、愛情を高尚なもんだと決めつけやがって、他人の恋愛に目くじら立てて、他人の感情に土足で踏み込んで」

 僕は言葉に詰まり、拳を握りしめた。彼はきっぱりと言いきった。

 「手前に分かってもらおうだなんて思ってねぇよ。そんなのもうやめた」
 「何なんだよう……ぼくは……」

 軽く頭を下げる。

 「父憎しのままに、友人として認めていた文島さんを殺してしまったことも、悪いと思っている……でもぼくはもう、僕自身をどうすべきか分からないんだ……!!」
 「どうすべきって何だよ、どうもこうもねぇよ。手前が自首したって死んだ奴らは誰も帰ってこねぇ。意味がねぇんだよ。いらねぇ加害者思想で俺達に迷惑かけんのやめろや」
 「僕にこのまま居ろっていうのか。謝ることもしないまま」

 おずおずと長身の彼を見上げる。彼の視線は、割れたガラスのように鋭かった。ガタガタうっせぇな、と小声でののしり、

 「じゃあもう手前が死ねや」

 彼はポケットに手を突っ込み、背筋を折り曲げた。体育倉庫に差し込む光が、彼のシルエットを逆光で彫り出している。倉庫の中にいるせいで、銀の短髪が鈍い黒に染まっている。薄暗い青の瞳は、静かな激怒で光っていた。

 「文島達を殺したってこたぁ、目には目をだろ、手前が殺されたって反論はできねぇよな」

 彼の大きな手が僕の方へ伸びた。胸倉を掴まれ、耳元で脅しの声を聞いた。さっきよりもずっと強い力で喉が締め上げられる。

 「覚悟がねぇなら俺が殺してやろうか」

 これまで聞いた中でいちばん刺々しい声音だった。背筋がきゅうと冷える。焦って彼の手の甲に噛み付くと、彼は一瞬だけ眉を上げた。

 「……なんてな」

 『彼』が自嘲するような、またはうめくような乾いた笑いを漏らした。手が離され、僕の頭は床に叩きつけられた。

 「何度でも言うぞ。俺ぁ手前が気に入らねぇ。足でまといだからどっか行け。俺ひとりでやった方が絶対効率いいからよ」

 憎悪からか、声がかすれていた。
 僕は紙と鍵を置き、緩慢な動作で倉庫を出た。すぐさま、ぴしゃりと扉が閉まる。
 周りの人達は、ステージの飾り付けにいそしんでいた。腹や頭のあちこちが痛むので、満足に動くこともできず、ステージに壁画を吊るす風景を見ていた。最悪な気分だった。
 壁画吊るし班の中に美保さんの姿を見つけ、覚束無い足取りで彼女の元へ歩いていった。美保さんは壁画の前に立ち、指示を出して位置の調整をしている。迷惑と言ってしまったが、学級委員である彼女の許可なしに勝手な行動はできまい。ほとほと呆れるしかない。

 「美保さん。怪我しちゃったんだけど、保健室に行ってもいいかな」

 振り向いた美保さんは、間違いなくたじろいでいた。えっと、と前置きして、ためらいがちに切り出す。

 「私は構わないと思う。あとで先生に報告しておいて――」

 それだけを言って、彼女は僕の顔をしげしげと見た。蹴られたせいで汚れた制服、腫れかけの頬を見て、しかし、何も言わず視線を戻した。

 「ねえ、もう一つだけ聞いてもいいかな」

 美保さんは身じろぎしたが、こちらには振り向かなかった。壁画を縛り付けたロープの先を、かたく握りしめていた。その頭が急に俯いて、

 「……わからない……ごめん……なさい……」

 後ろを向いたままなので表情はわからない。しかし、その言葉はたどたどしく震えていた。ふと思い出す、彼女は僕にも『彼』にも距離を置かれている。
 彼女は聖人だった。――いつだって与える立場であろうとすることは、博愛という名の傲慢かもしれない。

 僕は小声で謝った。体育館を出る前に、壁画に目をやった。
 中学生らしき男女が数人、海のそばに立って、皮肉なくらい爽やかに笑っている絵だった。

[newpage]


 保健室に赴くと、とりあえずの応急処置を施された後、どういう経緯で怪我をしたのかをしつこく聞かれた。ひな壇を運ぶ時取り落として転んだ、と説明したが、その割に変な位置に怪我をしている。保険医は『彼』が僕を殴ったとうたぐっているようだった。じっさいその通りだが、理由が理由なので何も言えない。
 頬からの出血がひどいので、一度帰って親に説明し、医療機関を受診するように言われた。『彼』にどこかに行けと言われたが、このまま校内にいたくなかったので、この怪我は逆によかったのかもしれない。

 こんな日でも、海は変わらずそこにある。自転車を押しながら、頬に貼られたガーゼを撫でてみた。メディカルテープのざらついた感触が伝わってくる。
 自分のふがいなさや、今まで己が起こしてきた事件、問題、もう何もかもすべてに腹が立って、苛立って、むかついて、全部全部何もかもを壊してしまいたかった。
 ハンドルを握る手に力が篭もる。
 僕はもうなにをすることも許されない。まるで亡霊のようだ。実体を失い、意志だけが残されふわふわと浮遊する。もしこの瞬間が人生ゲームだとしたら、全てのマスをふっ飛ばして一気に『あがり』か、サイコロを最初から振り直してやる。突き放したこと、出会ったこと、生まれてきたこと。

 潮風が傷にしみた。彼の態度が悲しくてやりきれなかった。僕だって文島さんを悼む気持ちはあるんだ。だって彼女はぼくの友人だった。
 もういやだ、いやだ、いやだ、……。ぼくはもうぜんぶにたえられない、崩れてしまいそうだった。ずんと重い腹の底。魚を捌くかのように、心が少しずつ薄いナイフで削られて剥がれていく。希薄された僕自身が存在することを、ただ赦してほしい。たったそれだけでいいんだ。

 校門前の坂を降り、少し広い道路に出る。『彼』に殴られたせいで頭がぐらぐらするので、自転車には乗らなかった。家には帰れない、時間を潰せるような施設はこの島には無い――。

 溜息を一つつく。

 僕の足は、自然にあの倉庫へ向かっていた。

 所謂ペトリコールか。雨に濡れた倉庫は湿っぽい匂いがしていた。自転車は山道の中に停めておいた。まさか盗るような物好きはいないだろう。僕は扉を開く。くすんだコンクリートの壁が、変わりなく僕を迎え入れた。
 いつも陽気に跳ね回っているモドキの姿が見つからない。あたりを見回すと、部屋の隅の診察台の上に、『彼女』を見つけた。

 寝そべる姿に近づけば、彼女は眠っているようだった。膨らみかけの胸が浅く上下している。乱れた髪の合間からやつれた寝顔が覗いていた。
 彼女が眠っているのは初めて見る。きゃんきゃん吠える顔か、にやにや笑って僕をからかう表情しか見たことがなかったので新鮮だった。
 よく見ると、彼女のワンピースの裾がめくれて、太腿が完全に剥き出しになっていた。相変わらず白い肌に、見たことのない傷跡がいくつも浮き出ている。このままでは身体によくない。とりあえず起こそうと声を張る。

 「やあ」

 寝惚けたままの彼女は、寝足りないとばかりにシーツを抱く。細い肩を揺さぶった。彼女は目もとをごしごし拭って、ゆっくりと目を開いた。彼女は黒髪を掻き上げ、気だるげに起き上がった。斜め上に視線を向け、空虚な溜息をつく。その顔つき、その目を見た瞬間、心臓が破裂しそうになった。
 息もできなかった。それは、呻きながら目を覚まし、ゆっくりと顔を上げる。一秒が果てしなく長く感じた。虚ろなつり目が僕を射る。彼女は睫毛をしばたたかせながら呟く。

 

 「……あら、谷崎」

 

 僕はかろうじて喉をこじ開けた。

 

 「――――久しぶりだね、文島さん」
[newpage]


 伸ばしかけた手が止まる。
 彼女は髪を撫で付けつつ、眠そうに唇をむにゃむにゃさせている。僕は何を返すこともできず、文島さんのつり目をじっと見つめていた。冷や汗が背中を伝った。
 彼女の気取ったような言い方に、こわばる口を開いて、

 「ふ、文島さんなのか!?」

 彼女は唇をぎゅっと噛んで、反撃体制に入った。

 「なによ、その言い草は!?人が寝てるところを起こしておいて、それはないじゃない!あなたって私の安眠妨害が趣味なわけ!?はっ、ほんっとうに悪趣味きわま……」

 口を手で塞いで、文島さんを黙らせる。混乱しながらその金の目を見つめた。文島さんは不服そうにほっぺを膨らませた。
 このなまいきな口調と減らず口、文島さんその人だ。僕は目を白黒させて、あたりを不安げに見渡した。

 「ふん」

 文島さんは僕をちょっと見てから、シーツを脇に寄せて、部屋の中央に座り込む。白いワンピースの上、ぶかぶかのカーディガンに包まれた体をまた抱いた。

 「なあ、君はなぜここにいるんだ!? モドキはいったいどこへ行った?」

 焦りと混乱の中で、ぼくの白い息が空中に溶ける。この雰囲気、モドキを初めて見た時に似ていた。彼女は声を荒らげる僕を観察するように見ていたが、

 「モドキ?」

 眉を上げて問いかけてきた。僕は小刻みに頷く。

 「そうだよ、文島モドキだ。君がたぶん、――火事で死んだあと、僕がこの倉庫で会った、君そっくりの変わった女だよ。一人称は『これ』、いっつもハイテンションで陽気で、でかい声でまくし立てるあいつ」
 「ふうん、それでモドキね。あなたにしては面白いこと言うじゃないの」

 文島さんは首を傾げてくすくす笑った。僕は彼女をひっぱたきたいのを懸命にこらえていた。

 「笑い事じゃないぞ」

 文島さんはふいに声を止め、僕に座るよう促した。

 「すくなくとも今の私は文島希よ」

僕は言われるがまま、一斗缶にも似た椅子に腰掛けた。彼女もワンピースを内腿に折り込んで座った。

 「火事の夜のこと、覚えてるかしら」

 忘れるわけもない。僕は深く頷いた。

アタラクシア


 「あの夜、私だけが火事から避難できたのよ」
 「なぜだ?」
 「あなたが帰った後、私とあの子は少し話して、そして、……こ、告白されたの」

照れたようにへらへらする彼女を睨み、先を促す。

 「でも私、持病があったでしょう?だから、死ぬ前にあの子と決別しようと思って、――断ったの。その後、私は地下の病室に帰ったのよ」

 あの夜、彼女は確かに火事に巻き込まれ、自分の病室で中毒に陥ったそうだ。
 所詮は中学生ひとりで用意できる火種だ。簡単に回避出来たはずのボヤ騒ぎ。大半の患者達が最上階に集まっていたため、被害が拡大した。しかし彼女はその時、一人だけ地下にいた。彼女はつきっきりの看護師が居たので、その看護師と共に、なんとか火事から避難することができた。
 なんとか生き残ったものの、彼女は絶望の中にあった。

 「逃げたわ。もう全部、どうでも良かったの」

 彼女はとつとつと語った。

 「ここで助かっても、早死にするのはとうに決まっているし、あの子との関係も自分で壊してしまった。しかも、朝までに助けが来なければ、日光のせいで命を削られる。その上助けられたところで、また一人ぼっちで病室に閉じ込められるだけよ。そんなの我慢できて?」

 彼女は苦虫を噛み潰すような顔をした。

 「だから、森林をさ迷って、あの廃棄物倉庫を見つけたの。中にあった、神経か何かの薬を大量に飲んだわ。ここに長い間放置されてるみたいで変質も激しいし、体にいい訳ないでしょう?これでいなくなれると思って」


 「は……ずいぶん感情的だな」

 文島さんの話を聞いて、僕は半笑いになった。彼女は大袈裟にため息をついた。

 「あなただって大概そうでしょう」
 

 文島さんは薬を飲み、その場で意識を手放したらしい。
 しかし翌朝、彼女は目覚めてしまった。
 陽の光に怯えつつ、廃棄物倉庫の割れた鏡を見て、文島希は悲鳴を上げた。目の色をはじめ、何もかもが変わっている。薬を飲む度、外見の変化はすさまじくなった。

 やがて変化は精神にも現れた。
 薬を飲むと気分が高揚し、躁状態に入るようになった。躁状態と平常時の差が激しくなり、躁状態の記憶はほとんど飛んだ。薬が効いている間は別人格を宿すようなものだ。


 「それが、モドキだったのか。今のきみは元気がないようだけど」
 「薬の効果が切れてだるいのよ」

 そういえば、この前会った『モドキ』は何やら眠そうな口調だった。あれは薬の効果が抜けかけていた所だったのだろう。
 ――薬で別人になる――、か。僕はちょっと目をそらした。彼女は壁にもたれかかった。

 病んだ体で怪しげな薬を飲んでは危険だ。分かりきっていても、彼女は薬を飲んだ。死を望んでおきながら、生にしがみつき続けていた。

 そして火事から数日後、『彼』が廃棄物倉庫に迷い込んだ。偶然に感謝する間もなく、文島は自分の身に起こっていることを全て話した。
 『彼』はまったく献身的で、受験生の夏休みをほとんど文島に捧げた。力仕事慣れした体を生かして倉庫改修をし、家から食べ物を持ち出して彼女に与えた。またモドキの人格を粘り強く飼い慣らし、文島と統合させようと試みた。
 完全な統合はできなかったが、僕と再会した時の様子から、ある程度の成果はあったようだ。
 秋までの間、文島さんはそうやって『彼』に囲われていたらしい。

 そして夏休み明け、僕があの森に迷い込み、薬を飲んだばかりで「躁状態の文島さん本人」に出会ったということになる。[newpage]

 「君と一緒に生き残った看護師はどこへ行ったんだ?」
 「身を隠してるんじゃないかしら。私を生き残らせたのはいいけど、結局私は行方不明になってしまったもの。何より、杜撰な管理体制に関わっていたからには、面倒な事になるわ」

 文島さんは人差し指をほおにあてた。

 「でも文島さん、そんな効果をもたらす薬を飲み続けるのは危険だぜ。逆に死ぬかもしれない」
 「薬が変質してくれたおかげで、私はあの子と結ばれたのよ。飲まないと生きられないじゃない」

 刹那的だ。相変わらずの恋愛脳に鼻を鳴らした。どうやら僕は二人の仲を壊すつもりが、二人の仲を取り持ってしまった。

 「それでも、君の中に『モドキ』が交じるんだぜ。そいつが彼と睦み合う。気持ち悪いだろう」
 「人格は私じゃないけど、あれも確かに私なの。いつかきっと、人格統合できるはずだわ」
 「自分に制御出来ないものを『自分』とは呼べない。希望論にすぎないな」
 「私の希望よ。あなたに壊させはしない」

 彼女は僕を睨みつけた。

 「それに、私は人格を統合したいだけで、たったひとりの『文島希』に戻りたいわけじゃないの。『文島希』に戻れば、家に連れ戻されちゃう。お父様もお母様も、あの子と私の仲を許すはずないわ」

 文島さんは思い詰めたように肩をすぼませた。

 「君の二番目の兄さんに会ったよ。妹ときちんと別れたかったとは言ってたけど、君の恋路には否定的だったな」

 そうでしょう! 文島さんは我が意を得たりと頷いた。

 「人格が統合されようとされなかろうと、私は『文島希』をやめる。あのままじゃ私は絶対に幸せになれない。あの子といたいのよ」

 文島さんはおもむろに顔を上げる。厚めの前髪から切り出された目がきらめいていた。

 「私、彼を愛してる」

 瞳には強い意思があった。僕はまた、浮かない顔になる。

 「……ぼくにはわからない。どうして君たちはそんなにも強い絆を感じているんだ?出会って、まだ半年しか経っていないじゃないか。君達は熱に浮かされてるだけだ!目を覚ませよ!」

 はっきりと叱ると、文島さんは怪訝そうな顔で僕を見た。

 「谷崎。あなたは怒っているのね」
 「そうだよ!」
 「いつもいつも、他人に怒りの矛先を向けて、他人を怒らせようとしてばっかり。自分一人で怒ったことはあって?」

 はぁ? 何を言っているんだ。イライラして舌打ちを重ねる。

 「あのね、あなたはあの子と仲が悪いみたいだけど、普段のあの子は怒ってばかりじゃないのよ」

 彼女はサッと目を伏せた。

 「だから私は、あの子を好きになったの」[newpage]


 「一体全体何が言いたいんだよ!?君たちの言う愛情なんて、全部嘘っぱちだ!」
 「谷崎。あなたもしかして、恐れているの?」
 「何をだよ。肝心なことばかりいつも誤魔化しやがって」

 ふいに目頭が熱くなってきた。

 「みんなそうだ。僕のことを知ろうともしないくせに、知ったように僕を語らないでくれ!僕の気持ちは、僕だけのものなんだ!!」

 僕はやけくそになって、めちゃくちゃなことを口走り続けた。文島さんはあっけらかんとしていたが、やがて重々しく唇を開いた。

 「私はあなたみたいに親にコンプレックスはないけれど、まともに人と関わったことがなかったのよ」

 懐かしむような、優しい口調だった。

 「お父様たちもお兄様たちも忙しいから、なかなか会いに来てもらえないし、小さいころからあちこち病院をたらい回しされて、他の人と愛着関係を築けなかったの。その上、大人になる前に死ぬなんて言われて、なんのために生きているかわからなくなった」

 彼女は悲しそうな顔で記憶を辿る。

 「だからあなたにもばかな物言いをしたし、あの子のこともいたずらにからかったわ」

 それが、いったいどうしたんだ。僕は依然として冷たい態度を貫いていた。彼女はふっと、視線を遠くに投げる。

 「でも、あの子に会って、確実に私の中で何かが動いたのよ。こんな私でも、無条件に愛してくれる人がいるんだって、あの子のこと、大好きになった。 ――幸せだったわ。私自身の中に、誰かを好きになる私を見つけた。あの時私は、少し変わったのよ」

 そう言えば僕は思ったのだ。
 あの日僕が感じた不気味さは、『彼』との出会いで彼女の中の女性性が目覚めたからではないのだろうか。文島さんはさらに続ける。

 「あの子に、この島から出て、一緒に暮らそうってって言われたの。私、どんなに辛い未来があったとしても、あの子と生きたいの。でも、その為には子供を産まないといけないみたいで」

 僕は半眼になった。

 「その話はあいつから聞いたよ。感情を利用するみたいで、好きじゃない」
 「わかっているわ。あんな条件、産まれてくる子どもも私もあの子も、皆侮辱しているもの。でも谷崎、あなたはこの条件の何に抵抗を感じているの?」
 「抵抗って、それは……、君と同じだよ」

 もごもごと口を濁す。

 「本当にそうかしら」

 文島さんが僕の瞳を覗き込んだ。

 「谷崎、あなた、お家にもお父さんにも抑圧されてたのよ。ここでくらい全部話してもいいのよ。支離滅裂だって構わない。それであなたが救われるなら」

 彼女はぐしゃぐしゃの髪を撫で付けていた。
 逡巡がいくつも重なったが、最後に僕は、口を開いていた。

 「……かあさんがおかしくなってしまった」

 僕は棒読みでつぶやいた。彼女はおもむろに顔を上げ、暗い目で僕を見た。

 「あいつが死んだ後、母さんは色々なものに逃げたんだ。あんなに弱い人とは思ってもいなかったんだけど、やっぱり親が親なら子も子ってことか」

 嘲るように口角を歪めた。モドキは目を伏せたままだったが、話を聞いてくれているようだった。二人きりの廃倉庫に、虫の鳴き声がぼんやりと響く。どこか切なげだった。

 「あなたはお父さんやお母さんが嫌いなの?」

 いきなりの質問に面食らった。僕はためらいながらも、

 「あいつは、――とうさんのことは、間違いなくきらいだった。母さんについては、ぼくはもうわからない。父を殺してから、堕落した母さんを見て、好きでいていいのか分からなくなったんだ」
 「これまではどうだったの?」
[newpage]

 骨の浮き出た手を組み、

 「あいつが死んでから考えてみると、僕はかあさんが好きだったからこそ、放火して父を殺すなんて選択に出たんだと思う」

 彼女は何回も首肯した。彼女とこんなに素直に話す自分が不思議ではあったが、しょうがないのだろう。こんな日だってあるんだ。

 「あなたきっと、夢を見すぎてたんだわ。お母さんにも、自分自身にもね。愛されている自覚はあった?」
 「わからない」

 僕は沈んで繰り返した。家の中にアルバムや成長記録はない。真理という名前の由来も聞いたことがなかった。けれど、

 「僕が父さんに殴られていた時、母さんは身を呈して僕を守ってくれたんだ。それは絶対に嘘じゃない」
 「信じていたのね」

 彼女は打ちひしがれたように目を伏せる。

 「あなたは親を嫌っているように見えて、本当は存在を認めて欲しかったんじゃないかしら」

 そんなこと、と遮りかけたが、文島さんは僕の手をとって撫でた。

 「なんとか愛されたい、いい子にしてれば愛してもらえるかもって思う反面、抑圧された生活の中で他人を信頼できない、息苦しい毎日だったのかもしれないけれど谷崎、何も怖いことはないのよ」

 ごく自然な雰囲気で、線の細い掌が僕の頬を撫でた。

 僕は、小説と自分を同一化してるんじゃないか、と彼女に言ったことがある。
 けれど、本当に『同一視』していたのは僕のほうだ。僕は今まで父や弓子さんと文島さんたちを、母と聖母を、恐ろしい敵と世界を同一視していた。
 やはりそれは違う。だって文島さんは言うのだ。

 「私たちは子供だった、けど、ずっとそのままではいられない。あなたが結婚や出産を恐れる意味はわかるわ。だってあなたの知る家族は、窮屈で惨めなだけだものね」

 文島さんの手のさらさらした感覚がくすぐったくて目を細めた。直に触れられるのなんて、いつぶりだろう。

 「けれど谷崎、人間は多面体なんだわ。大人や親は、あなたを苦しめてきた『親』とイコールではないの。私とあなたを否定したお父さんは、違うのよ」

 彼女は励ますように繰り返した。

 「そして、あなた自身と、あなたのお父さんもね」

 文島さんはなおも、子猫でも触るように僕の頬を撫でる。

 「あなたのお母さんだって人間だわ。周囲の目を気にしたり、沈むあまり全てを投げ出したりする弱さもあるけれど、息子を守るために強くなることもできた。優しくて強いだけの人はいないけど、100%弱くて脆いだけの人もいないはずよ。人間は多面体なんだわ」

 彼女は、白い首筋に浮き上がった赤い噛み跡を撫でて呟いた。それは彼女が『僕の友人』だけではなく、『彼の恋人』でもあることを克明に示していた。

 「君もまた多面体か」
 「ええ、そうね」

 文島さんは恥じらって笑った。[newpage]


 僕は黙り込んで、所在無さげに右手を開いたり閉じたりを繰り返した。文島さんはそれをずっとずっと見ていた。そして、彼女は僕の背中に手を回す。温もりが直に、渇ききった肌に伝わってきた。眠りに落ちる子供を抱く母親のようだった。僕は抵抗せずに、その温度に身を委ねる。

 「僕がずっと恐れていたのは、他の人をまともに好きになること、あと、きっと、君達が親になる事だ。愛情は朧気で、そんなものはないと思っていたし、今も……信じられない」

 掠れてぎざぎざになった声が続く。文島さんの表情がほどけた。その様相を見て、心が弾け飛ぶようだった。たまらず涙声が漏れる。

 「ごめん……ごめん……!! 僕は君を殺してはいけなかったんだ。君は僕を友達と認めてくれたんだ。だから僕は、きみの幸せを願うべきだったんだ。なのに、なのに僕は……ッ!!」

 手の甲で目尻をゴシゴシと拭った。心臓のリズムに合わせて、掌が僕の背中を撫でる。

 「あの頃の僕の敵は父親ただ一人だった。だから僕は、療養所に放火することこそが正義だと思っていたんだ」

 う、と濁りきった嗚咽が絞り出された。鼻がつんと窄まって、洟水が滲んできた。文島さんは穏やかに声をかけた。

 「ずっと否定されるのが怖かったんだわ。けれど、自分を傷つけないものばかり愛しても、あなたが本当に望むものは得られないでしょう?」
 「うん……うん……ッ」

 細くなめらかなあの手が、僕の髪を撫でた。僕は文島さんの細い肩に手を伸ばし、その背中を引っ掻きながら静かに泣いた。

 「愛することを恐れないで」

 僕は鼻を啜りながら頷く。

 「存在を認められて初めて、大人になることができるのよ。だから私たちは、体や頭は少年少女でも、こころは子供のままだったんだわ。ねえ谷崎、何も恐れることはないの」
 「ごめん……ごめん、ごめんなさい…………ごめんなさい……」

 僕は涙ながらに何度も繰り返した。文島さんはさらに深く僕を抱きしめる。

 「私はあなたのこと、赦すわ」

 押し潰されてきた感情が一気に溢れ出す。僕は無様に泣き喚いた。
 文島さんの肩を掴んで、まるで子供のように身を寄せて激しく嗚咽した。耳鳴りも心の痛みもすべて振りほどいて、まるでぶつけるように割れるような声で。すべて耳元で、文島さんの声が聞こえた。

 「抜け殻だったあなたと、病床にいた私と……ねえ、私達、ともだちよ」

 


 


 「あのね、谷崎。私は読書が趣味なの」
 「知ってるよ。なんだい、まだ何かあるのか」

 僕の目尻の涙を不器用に拭って、文島さんが言った。

 「『真理』にはね、どんな時でも変わらないただ一つの筋道、って意味があるのよ」

 文島さんはほほえみながら、僕の体を優しく抱きしめた。僕は洟水をすすって眉根を下げ、顔面をぐしゃぐしゃにして、口角を円に曲げた。我ながらひどい顔だ。だけどそんな言葉ってまるで、


 「希望みたいだ」