死体はともだち//上

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 死体に恋する

 「くそ、バス代ケチらなきゃよかった……!!」

 爽やかな潮風とは裏腹に、僕の気分は果てしなく最低だった。茂る草むらを掻き分け、山道を踏みしめながら悪態をつく。

 七月を迎え、この離島にもちらほらと観光客が見られるようになった。砂浜ではしゃぐカップルを睨みつけ、僕は立ち止まって汗を拭った。中学制服のまま来なかったのは唯一の英断である。

 僕は今、父の経営する難病療養所へ向かっている。
 厄介な病気の患者が、自然の中で静養するための施設だ。

 思えば療養所に行くはめことになったのも父のせいだな、とため息をついた。
そう。僕の父は本当にろくでもないやつなのだ。



 7月はじめのある夜。父が突然僕を部屋に呼び寄せた。
 父はこの島で、金持ち向けの療養所を経営している。僕は中学生でまだ働けず母は専業主婦の現在、父は家の大黒柱だ。
 でもどうにも、彼と僕とは折り合いが悪い。

 「久しぶり、父さん。最近朝帰りが多いね、お仕事お疲れ様」

 皮肉をあっさりと無視し、父は口を開いた。

 「谷崎、今俺の療養所は人手が足りないんだ。対話ボランティアになってくれ。できるな」

 父はそれだけ言って書類に目を落とす。

 息子を名字で呼ぶのか。医療知識もない素人をボランティアにしてもいいのか。僕の意思はまるっきり無視か。

 父への怒りがふつふつと湧いてくるのを感じたが、逆らうことはできなかった。
 お父さんには逆らっちゃ駄目よ。色んな人にそう言われてきたが、これだけは考慮してほしかった。

 ……僕は人間不信気味のモヤシ中学生だ。
 真夏に山奥で対話ボランティアとか、それ、苦行だから!



 森林の中にそびえる西洋風の白い建物が、父の療養所だった。

 『海を一望できる自然に囲まれた緩和ケア』といえば聞こえは良いだろう。
 しかし実態は、離島の中でもさらに地価の安い山を適当に切り開いただけだ。実父ながらこすいやり方である。

 強い陽射しに晒され、くっきり影を作るその建物は、コンサートホールや美術館を彷彿とさせた。幼い頃父に連れられて数回訪れたくらいなので記憶がない。

 建物は小さいが、金持ち向けとあって内装には高級感がある。

 着いてすぐ、既に顔見知りの看護師から軽い説明を受けた。

 やはり金持ち向けだからか、患者には専属の看護師やスタッフがつくらしい。ボランティアも同じで、患者のだれか一人に専属でスタッフがつかなければならないそうだ。
 説明されてもいまいちピンとこない。
 しかしそれ、ボランティアと患者の相性が合わなかったら悲惨なことになるんじゃないか。

 都都宮、と名札をつけた看護師から、今日僕が会う患者の書類を渡された。


 文島希、という名だった。


 添えられた写真にも目をやる。

 切りそろえられた長い黒髪と、青白い肌のコントラストが眩しい。
 目は大きいのだが、まなじりが極端につり上がっているせいで、顔のパーツがゆがんで見えた。口元はなにかを決意したように固く結ばれており、ひどく薄い。
 全体的に肉付きが悪く、不健康そうな少女だった。

 日光が身体に悪いとかで、幼い頃から地下の窓のない病室で暮らしている不憫な少女――だそうだ。少なくとも、話上手で陽気なタイプには見えないな。

 むすっと黙り込んでいると、何を勘違いしたのか彼女はぺらぺらと喋り出した。

 「そんなに照れなくてもいいのよ。年頃だから仕方ないけど、異性といっても考えてることはそう変わらないんだから。今日会ってもらう文島ちゃんも、谷崎くんと同じくらいの歳なのよ。谷崎くんは頭もいいし、きっと仲良くなれるわ」

 僕は小さく鼻を鳴らした。男女二人いれば必ず恋愛に結びつけようとする――全くもってくだらない。
 看護師、父、暑さ……全方位に苛立ちながら、僕は地下へ向かった。

 地下の病室は、療養所というより監獄のような様相だった。冷たく、湿っぽい空気が誰もいない廊下を満たしている。看護師が扉を開いた。

「こんにちは」

 えらく質素な部屋だった。
 窓もない陰気な部屋の中に、ベッドとサイドテーブルがひとつずつ。そしてそこにはさっきの写真の少女。サイドテーブルに置かれた千羽鶴と家族写真は、薄く埃を被っていた。
 鎖のような点滴に繋がれている文島さんは、こちらに目をくれることもなく文庫本に目を落としている。何か冷たそうな女だな。

 「それじゃあ谷崎くん、ちょっと出てくるわね。自己紹介とか、済ませておいて」

 看護師が去ってからしばらくして、やっと文島さんが言葉を放った。

 「初めまして、谷崎君。せっかく来ていただいた所悪いけど、もう帰っていいわよ。私、他人と喋るのはあまり好きじゃないの」

 病室に入った瞬間にこれか。文島さんの言い方に嫌味っぽさがないだけさらに腹が立つ。
 もしかして看護師も、所長の息子で彼女と同年代だということを承知で、わざとやっかいな患者を押し付けたのかもしれない。被害妄想はますます広がる。
 世界はいつも僕にやさしくない。

 「そう言われてもね、こっちは頼まれてやってるんだ。きみはもう少し身の程をわきまえたほうがいいよ。きみはすぐ死ぬからいいだろうが、僕は君にひどい仕打ちをされた記憶を抱えて生きるんだ」

 失礼を承知で、彼女に苛立ちをぶつけた。


 文島さんは小さく目を見開き、手にしていた本を素早く閉じる。ややこわばった声で、

 「……そうね、言い過ぎたわ。本当にごめんなさい。よろしくね」
 「よろしくする気も失せるよ……と言いたいけど、許すよ。君はずっとこんなふうに対話ボランティアを追い返してきたのかい?」
 「そうよ?」
 「ふうん。ま、中には喋るのが嫌いな人もいるだろうしね。きみみたいに喋るのが苦手な人もいるだろう。一日中病院に缶詰だからって、誰もが対話に飢えてるわけじゃない」

 訝しむように文島さんが目を細める。

 「どうして私のことを、『喋るのが嫌い』じゃなくて『苦手』なんて言うのよ。あなたを追い返そうとしたくらいなのに」
 「さっきあんな物言いをされたけど、きみは人間嫌いじゃなさそうだ。家族写真やあてつけみたいな千羽鶴を飾っておくようなやっさしい女の子だもんね」
 「続けて」
 「幼少期から病床にいたそうだね。きっと喋るのにも慣れてないだろう。尋常じゃなく喋りが下手な人間にとって、コミュニケーションは苦痛なものだ。きみは自分からボランティアを拒否することで、会話の機会を避けたんだ。嫌いなわけじゃない。会話で傷つくことを恐れて、逆に他人を傷つけているんだ」
 「……認めたくないけど、多分当たってるわ。推理したの?」

 文島さんが興味深そうに片眉を上げた。いいや、と肩をすくめる。

 「きみがさっきから読んでた本の表紙が見えたから」

 コンマ数秒をおいて、文島さんの叫び声と共に、『すぐわかる! 初対面の人と仲良くなる方法』が投げつけられてきた。

 「ば、ばかじゃないの!? ばっっかじゃないの!? なんで人の読んでる本を勝手に覗くのよ!」
 「だってずっと表紙を立てて読んでるから。どうやらきみにはこの本は役に立たなかったみたいだけど。そこから『悪意のないまぬけな女の子』ということも分かったよ、あはは」
「……わ、悪かったわね……!!」

 からかって言うと文島さんは顔を真っ赤に染め、涙目で唇を噛み締めていた。その姿があんまり可哀想なので、優しい声色で話しかけてやる。[newpage]

 「友達を作るには、本より実際に人と話すほうがためになるものだよ。あいにく、僕も人と話すのはあまり得意じゃないんだが、だからこそ分かり合えることもあるだろう。おたがい気兼ねせずに話そう」

 自分なりに精一杯の笑顔を作り、文島さんに笑いかけた。
 彼女は羞恥心から枕に拳を打ち付けていたが、やがて潤んだ目で僕を睨みつけながら呟いた。

 「谷崎、真理くんね。……よろしく、おねがいします」
 「なんだ、ちゃんとした挨拶もできるんだな」
 「うるさいわね! 病気だからっていつもひょろひょろで不幸まみれなわけじゃないわよ!」

 いー、と文島さんが歯を剥いた。
 わざわざ言わなくても、この金切り声ですぐにわかる。写真や外見からじゃ根暗なお嬢様に見えたけれど、案外話せる女みたいだ。
 文島さんは枕に肘をついて、憮然とした表情で続ける。

 「大体谷崎、さっきから何なのよ、全部上から目線で自己中心的だわ。自分に酔ってるの?」
 「お互い様だよ」
 「指摘され慣れてるようね」

 僕は気まずくなって目をそらした。同時に、ベッドサイドに置かれた大量の文庫本に目をやる。古今東西の文豪の本が山積みに並べられていた。
 視線に気付いた文島さんが声をかける。

 「三分の二くらいしか読んでないわよ」
 「そんなにか」

 僕は何気なくフォークナーの短編集を手に取り、ぱらぱらとめくってみた。


 「そういえばこの小説家、あなたと苗字が同じだわ」

 文島さんが本の山から一冊を抜き出す。国語の資料集で目にした表紙だ。


 「谷崎潤一郎


 表紙を指で叩かれるが、読んだことがない作品なので返答のしようがない。

 「どんな作品なの」
 「変態的な恋愛小説」
 「恋愛も小説も嫌いだ。恋愛小説はもっと嫌い」
 「この本はそうだけど、他にも色々な作品があるのよ」

 文島さんは意外にもロマンチストなようで、遠くを恍惚と見て呟いた。何かを夢見るような、または憧れの視線だった。君はろくな死に方をしないだろうね、と告げる。
 恋愛小説はいただけないが、変態的というのは少し興味がある。恋愛小説以外にもあるのかと聞くと、文島さんは満足気に語り始めた。

 「この人の作品は身が痺れるような快楽を与えてくれるのよ。でも私自身はもう、恋愛なんてしないつもりなの。こんな身体じゃどうにもならないでしょ」

 幼いながらに高潔を気取る彼女は、思い出したように付け加えた。
 乾いた笑いが漏れた。そのすぐ後に扉が開き、看護師が入ってきた。

 「文島さん、真理くん。そろそろ検診の時間だから、いいかしら」
 「はい」

 僕はそっけなく返して席を立った。
 病室を出る直前、文島さんに呼び止められる。上目遣いで、

 「あの、……また来てくれる?」

 いいよと答えると、文島さんは儚げな笑みを浮かべた。きっとあの気の強さは取り繕っているだけで、死と孤独に怯えるこちらが彼女の本性なのだろう。
 看護師に無言で礼をして療養所を出る。無性に心が浮き立っていた。

 今日僕は、友人ができた。[newpage]

 心がふわふわしている。
 山道を降り、海沿いの道路をぼんやりと歩いていた。蒸し暑さの中、時折吹き抜ける風が心地よい。
 交差点にさしかかり、海へと目線を移す。

 夕日が沈み、墨色に濁る海には、小さな漁船がちらほらと浮かんでいた。
 コンクリートで固められた海岸線に人気はない。林民家、墓地が夕日に照らされ並んでいる。
 ありふれた離島の風景だが、僕はこの風景が気に入っていた。あの海には、何人の人が身を投じたのだろう。
 ぬるま湯に浸かっていた意識を、声が叩き割った。

 「危ない!」

 慌てて振り向くと、二台の自転車が坂道を下り、まっすぐこちらへ向かってきていた。
ぶつかる、と思ったその瞬間、僕はコンクリートにしたたか身体を打ち付けた。

 「いっ、たぁッ……!!」
 「大丈夫!? 痛くない!?」

 傷口からは真っ赤な血が流れ出ており、痛みは感じないものの、腕がわなわなと震えだす。顔の泥もそのままに、僕を轢いた犯人を見上げた。

 自転車に乗っていた片方は、三つ編みセーラーの利発そうな少女。
 もう一人は僕を撥ねた方だ。180センチ強の凶悪な顔つきの青年だった。顔立ちからして東欧系だろうか。白髪のせいで年を食った囚人のように見える。二人の着ている制服は僕の中学校の物だった。

 三つ編みの少女がハンカチを取り出し、僕の傷口に処置を施した。デカブツは傍らで不安げにそれを眺めていたが、彼女に一喝され、茂みに放り出された僕の靴を救出してくれた。

 「あっりがと、えっと……」
 「美保、よ。おんなじクラスの灯椿美保。あなた、谷崎くんよね? とりあえず家に帰りましょう」
 「でも、歩ける状態じゃねぇだろ、その傷じゃ」
 「おぶうのよ。谷崎くんを怪我させちゃったのはあんたでしょ?」

 美保さんがまたデカブツを叱咤した。この女、口喧嘩とかめちゃめちゃ強そうだな。気の強さだけなら文島さんに匹敵するかもしれない。

 デカブツといえば、憮然とした表情でこちらを見ている。

 なんだよ、その表情。僕だっておまえみたいな暴れ牛に背負われるのはごめんだ。



 不本意ながらデカブツの硬い背中に背負われ家路についた。
 腕と足の痛みに耐えながら進むと、西洋風の一戸建てが視界に入った。白い壁の前にはしゃれた外車が停まっている。
 邸を指さし、あれだよ、と二人に合図する。デカブツがぼそっと呟いた。

 「随分でけぇ家だな。海にも近ぇし、土地も高ぇだろ」
 「それはどうも。デートの邪魔をして悪かったね」
 「あはは、私とこいつはただの幼馴染だよ。こいつ、昔っからぼやっとしててね。本当にごめんね」
 「い、いや……美保さんが謝らなくても……」
 「まあ、真理ちゃん! ひどい怪我!」

 口ごもっていると、連絡を受けた母が顔色を変えて出迎えてくれた。美保さんが一部始終を説明する。
 いきなり治療費に言及した母に、デカブツがさっと顔色を青くした。思い出したように美保さんが付け加える。

 「それなんですけど……彼の家、あまり裕福じゃないんです。治療費みたいなまとまったお金を出すのは少し難しいかと……」
 「そう言われてもねえ、ほら、うちの真理ちゃん怪我しちゃってるじゃない? 聞いた話では、ほぼそちらの過失でしょう? 怪我をどう補填してくれるのかしら」

 母は腕組みしながら言った。大人の悪意を明確に感じ取り、美保さんは途端に黙りこんだ。デカブツは口をもごもごとさせてどうにも頼りない。
 気まずい沈黙の中、さざなみがただ響いている。

 それと同時に、僕は僕にとって完璧なアイディアを思いついた。

 母の肩により掛かり、二人に聞こえないように囁く。

「美保さんもこう言ってるし、結局は保護者と話すことだし、治療費の話をここで出すのはやめておこうよ。美保さんもこのなんとか君も、僕のクラスメートだから関係悪化は避けたいし……」
「……パパに相談してみるわ」

一方デカブツと美保さんは安堵の表情を浮かべていた。

「えーと、何君だっけ。とにかく、治療費うんぬんの件は後で保護者さんに連絡しておくよ。家庭事情のこともあるだろうし、できるだけ安くできるようにお母さんには言っておく」
 「い、いいのか!? そんなことしてもらっちまって」
 「もちろん、タダでとは言わないけどね」


 鋭く言うと、デカブツ君と美保さんが心配そうにこちらを窺っていた。
 文島さんの眉を釣り上げたあの顔を思い出す。コミュニケーション不全な彼女には、荒療治が必要だろう。


 「実は僕は、療養所の対話ボランティアをやってるんだ。気難しい患者の相手を一人で行うのは本当に大変でね……そこで一つ提案があるんだ」

 おずおずとデカブツが頷く。不安げにこちらを見る彼に、満面の笑みで一言。


 「君は美保さんなしだとまったくもって何もできないようだけど、変えるべきじゃないかな? 僕と一緒に、ホスピスで奉仕活動してくれないかな」


 デカブツは驚愕し、うなだれ、その後半目になった。



 夕食中、母がぽつんと呟いた。ソテーにナイフを入れながら、

 「ごめんね、真理ちゃん」
 「どうして母さんが謝るんだよ」

 「今日の、真理ちゃんの怪我のこと。ママがちゃんと働けてたら、いきなり治療費の話なんてしなくても良かったのに。ママ、何も出来なくてごめんね」

 「いいんだよ。怪我はどうしようもない話だし、母さんが働けないのもしょうがない話でしょ。父さんの稼ぎだけでとりあえずはなんとかなるんだから」
 「でも……」

 そういえば、とスプーンを置く。

 「父さんは?」
 「仕事場の人と食事だから、夜はいらないって」

 ……外食、ねぇ。
 苛立つ気持ちを抱えながら、最後の一口を飲み込んだ。

 

谷崎と文島

 「なぁーによ、その怪我。この前あんなかっこつけた事言っておいて、今度は大怪我で登場? 満身創痍じゃない。あなたこそここに入所したら?」
 「君はコミュニケーションの本を読むより、部屋に入ってきた人にいきなり罵倒する癖を改める方が重要だと思う」

 翌週、再度訪れた病室での初めての会話だ。僕の左腕のギブスを一瞥し、文島さんは吐き捨てる。

 優しさいっぱい、笑顔いっぱいの美保さんとはえらい違いである。
 文島さんは自分の髪を指差してみせた。そこには赤い蓮の髪飾りが光っている。

 「見て、これ。お兄様が送ってくださったのよ。蓮の花言葉は『神聖』ですって」
 「へー珍しい珍しいー。ところで別の話なんだけど、君を担当する新しいボランティアが今日から来ることになったよ」

 僕の棒読みに不満気な彼女だったが、さっと泣きそうな顔になった。

 「大丈夫、僕の他に追加でもう一人だから。決まった人とだけ話してもコミュニケーション能力は上がらないしね」
 「なるほど、それも一理あるわね。流石谷崎だわ。どんな人なの?」
 「でかくて筋肉ダルマで囚人みたいな凶悪な顔つきをしたチンピラ口調の喧嘩っ早い狼男。他人を撥ねる暴れ牛。木偶の坊」

 文島さんはおもむろに枕を抱き寄せ、顔をうずめ、再度顔を上げて真顔で告げる。

 「無理ね」
 「彼も人見知り気味の中学三年生だよ。ほら共通点二つ追加」
 「共通点があったところであなたとはかけ離れてるわよ! 大体人見知り三人集めてまともな会話が出来る訳ないじゃない! 三人寄れば文殊の知恵って言いたいの? 文殊の知恵どころか、三人寄って衆愚の集まりよ!」
 「まあ僕は共通の知り合いだし、そこらへんはうまくやってくれよ」

 文島さんがため息を吐いて、せわしなく髪を掻いた。サイドテーブルから話し方のハウツー本を取り、しきりに手で撫でている。

 というか文島さん、さっき自分も衆愚に含めたな。

 部屋から出ると、こちらにも死にそうな顔の『彼』が立っていた。でかい図体を小さくすぼめている。

 「君、入って自己紹介して」
 「なあたにさきやっぱりやめようぜおれうでっぷししかとりえのねえばかだからよせんさいなおじょうさんのあいてなんざできねえよ」
 「あ、気にしないで。文島さんは繊細じゃないお嬢さんだから」
 「聞こえてるわよ!」
 「ほら、言ったろ?」

 ガチガチに固まった『彼』が病室に入ると、文島さんも同時に身をすくめた。
 文島さんは条件反射的に『彼』を睨みつけ、『彼』も緊張のせいか強面な顔が更に凄まじい形相になっている。
 『友人に別の友人を紹介』というよりは、不倶戴天の敵が偶然顔を合わせたような張り詰めた雰囲気だ。戦国武将か君たちは。

[newpage]


 『彼』にスツールを勧め、自分も腰掛ける。『彼』は硬い表情のまま、文島さんに目礼した。お互い硬い声で、

 「初めまして」
 「ほら、そんなに怖い顔しないで。虚勢張ってるけど、意地悪な子じゃないから」
 「虚勢ってどういうことよ!」

 気の強い文島さんはついいつもの調子で噛み付いてきた。そして、しまったというように彼を盗み見る。彼は、おしとやかそうな外見と発言のギャップに目を白黒させていた。文島さんがあたふたと謝罪する。

 「あ、あの、すみません」
 「いや、構わねぇ。いつもの調子でやってくれたほうが楽だろうし、俺もそっちのほうが落ち着く」
 「そ、そう……。あの、あなたもそのままの口調で大丈夫。そのうち慣れるから」

 美保さんの面影を見たのか、彼の表情が柔らかくほころんだ。

 「すげぇいいとこのお嬢さんって聞いたけど、なんつーかあんまり気取ってねぇな」
 「そこの谷崎よりはね。七、八年前からずっと病院で、あまり家族にも会ったことないのよ。だから影響が薄いのかもしれないわ」
 「うん、じゃあ、あの……君、休日は何してるの?」
 「仕事」

 苦笑いしながら話をそらすと、文島さんが身を乗り出してきた。

 「あなた、仕事なんてしてるの?」
 「ん、あぁ」
 「どんな?」
 「新聞配達とか、あとは知り合いの店とか旅館とか手伝ったりして金もらってんだ」
 「そんなにいい体してたら、さぞ仕事も捗るでしょうね。とても中学生には見えないもの」
 「飛び入りでできる仕事ってえと、ここらじゃどうしても力仕事中心になっちまうから、筋肉つきまくってこんなんになっちまったけどな」

 彼は筋肉で張った二の腕を叩いてみせた。文島さんがうらやましそうに目を細める。

 「凄いじゃない! 私なんか、ずっと親のお金で養ってもらってこの体たらくだわ……駄目ね。あなたの身体、私は好きよ。アウトドア向きじゃない?」
 「そうだな。手前も、いつか、海でも見に行けるといいな」

 さらりと放たれた一言に、文島さんの表情が凍った。
 彼女が地下病棟に繋がれているのは、日光が病気を進行させるからだ。
 その病が複合して発症したものか、彼女を死に近づけているものなのかは知らない。しかし、彼は話を聞いていなかったのだろうか。

 「……そうね。海。……行きたいわね」

 そう言って文島さんはぎこちなく笑った。
 それから二人は学校での話に花を咲かせる。僕は派手な学校生活を送っていないので、彼の武勇伝を文島さんと一緒になって聞いていた。

 しかしこの二人、随分と馬が合うようだ。
 僕相手にはおどおどしっぱなしだった『彼』も生き生きとした表情だし、一番拒否していた文島さんがあっさりと彼を受け容れている。僕を挟まないと話せやしない、と泣きそうだったのが嘘みたいだ。

 「水分補給してくる」
 「いってらっしゃい」

 聞こえよがしに言っても、文島さんは目を細めて手を振ってくる。戻らなくていいわよ、なんて嫌味まで付け加える元気っぷりだ。
 案外効果的だったかもしれないな、僕の荒療治。『彼』との交友経験を元にして、正規のボランティアとも話せるようになるはずだ。

 しかし、さっきからずっと気になっていたことがある。


 この二人を見ていると、酷く喉が渇く。[newpage]


 売店があるのは一階のロビーだ。
 文島さんの病棟から出るため、廊下の端でエレベーターを待つ。その横に、あの看護師が立った。

 「こんにちは、真理くん。また来てくれたのね」

 都都宮弓子。
 僕と文島さんを冷やかした看護師だ。
 すらりとした長身。黒い髪をひっつめ髪にして佇むその姿は清潔感に溢れている。口元のほくろが印象的な、柔和な美人だ。
 ついいつもより低い、無愛想な声が出るのが分かった。エレベーターに乗り込み、憂さ晴らしとばかりにボタンを叩いた。

 「こんにちは、弓子さん」
 「どうしたの? 体調でも悪いの?」
 「やめてください」

 僕は、弓子さんが差し伸べた手を強く払った。怒り、軽蔑、惨めさ。様々な感情が心を引き裂いていく。
 エレベーターは一階に到着し、とびらがゆっくり開いた。声を潜めて囁いた。


 「あなたと父がどういう関係なのか、知らないと思ってるんですか。かま掛けてるわけじゃないですからね。もう……見ちゃったんです」

 心当たりがあるのか、弓子さんは妖艶に笑った。女の苦い、ほの暗い一面と言ったところだろうか。
 僕だって昔から父を嫌っていたわけじゃない。
 しかし、父が様々な女性と関係を持っていると知った時から、僕は彼に軽蔑を覚えるようになった。看護師の弓子さんも愛人の一人のはずだ。

 「誰かにバラすなんて出来るわけないわよね。真理くんのお母さんは専業主婦だから、先生に離婚されちゃったら実家に戻るしかないらしいし? その実家も、父方の援助で保ってるんだってね。真理くん、容姿はともかく中身はお母さん似ね。貧乏くささがにじみ出てるわ」

 まくし立てて、弓子さんは笑った。彼女の化けの皮が剥がれた瞬間だった。

 彼女には余裕しかない。
 大人で、美人で、それなりの金も稼ぎ、父に愛されている弓子さんと、子供で、なんの力もなく、父からは名字で呼ばれる立場の僕。力の差は歴然だった。

 「じゃあ、真理くんに一つ質問するね。――もし谷崎くんが、この先の人生を約束してくれる未亡人に出会って、人生の安定と引き換えに恋人になって欲しいって言われたら、断れるかなぁ?」
 「僕の母は死んでません」
 「少なくとももう、先生の中では死んでるよ。それとも真理くん、君は自分がまだ生きてるとでも思ってるの?」
 「……どういうことですか!?」
 「死に憧れてるんでしょ。そうでなきゃ、中学生が好きこのんでこんな所に来るわけないじゃない」

 意地汚い女だ、と再度思う。先日の夕食の相手もきっと弓子さんだろう。不倫と同時に、父がどれだけの金をこの女につぎ込んでいたかを思うとさらに怒りが高まる。無言で睨む僕と、不敵に笑う弓子さん。そんな僕達二人に、楽しげな声がかかる。

 「何言ってるんですか? 谷崎くんは生きてますよ」[newpage]

 

 「こんにちは」

 美保さんだった。
 彼女はいつものセーラー服ではなく、淡い黄色のノースリーブワンピースを身にまとっていた。普段は制服の袖に隠れている肌があらわになっている。
 彼女ははにかんだように笑って、顔にかかった髪の毛を掻き上げた。

 「あら、こんにちは。入居者さんのご家族さん?」
 「違います。谷崎くんの友人です」

 美保さんは満面の笑みのまま言い放つ。

 「看護師がボランティアを虐げるような施設に家族を入れたくないですから。お忙しいでしょうし、失礼します」

 美保さんが僕の手を取り、ロビーへ導いた。弓子さんの背がどんどん遠くなる。
 幼稚な皮肉だ。弓子さんは変わらず笑ったままでいる。僕の立場は何も変わっていないのだ。

 なのにどうして、――僕は泣きそうなんだろう。



 「谷崎くんも大変ね。所長の息子だと、ああいうことがあるんだ、やっぱり。バシッと言ってやればいいのに」
 「そういうわけにもいかないよ。美保さん、どこから聞いてたの?」
 「エレベーターから出てから」

 ほぼ全部じゃないか。

 「誰にも言わないで」
 「わかってる。谷崎くん、……あのね、血は繋がっていても、心が繋がってなきゃ家族じゃないからね。お父さんと一緒にいるのが辛かったら、無理に一緒にいようとしなくていいんだよ」

 サイダーを購入し、ロビーに置かれたソファに腰掛ける。

 「テレビとかで家族は大事、ってしきりに言ってるけど、じっさい、完璧に心が通じ合ってお互いを大事にしてる家族のほうがよっぽど珍しいんだから」
 「ありがとう。そう言えば、美保さんはどうしてここにいるの?」
 「ああ、私? あいつが上手くやれてるか心配になって、私にも面会許可でないかナースセンターに交渉しに行こうと思ってね」
 「美保さんはなんていうか、凄く世話焼きで、積極的だね……」

 『彼』が文島さんに謎プロポーズする前に来てくれたらもっとありがたかったな、と思う自分がいる。美保さんの快活な笑いで、弓子さんに言われた嫌味も少しずつ薄らいでいく。

 「男みたいな女だって言われるけど、私は気にしてないよ。谷崎くんも、あの人に何言われたか知らないけど、そんなの気にしなくていいからね。谷崎くんはきっと何も悪くないんだから」

 美保さんは紅茶缶の蓋を開いて、一気に飲み干した。

 「でも、アイツの付き添いだけじゃないのよ。福祉活動とか興味があったんだけど、なかなか機会がなくてねー。ここでは何も出来ないけれど、高校生になったら私もボランティアやってみたいな」
 「あは……あ、あるらしいよ、港前の清掃ボランティアとか」
 「私、来年島を出るんだ。首都の私立高校に行くの」
 「首都の私立!? どうして!」

 思わず声が裏返る。美保さんはいたずらっぽく笑って耳打ちした。

 「政治家になりたいの」

 耳を疑ったが、笑う気は起きなかった。美保さんは続ける。

 「――叶わない夢かもしれないけど、一歩も努力しないまま人生を終えるのは嫌。自分がどこまで通用するのか、試してみたいんだ」

 美保さんは秀才だ。
 地頭のよさと努力を怠らない姿勢で、学校ではぶっちぎりのトップを走り続けている。コンテストや表彰で本土、あるいは首都に渡ったことも多く、町ではちょっとした有名人だ。
 大きな夢も、文武両道、品行方正な彼女なら現実味を帯びてくる。
 しかし、そんな秀才の彼女がなぜ政治家などを夢見るのだろう。医者でもなんでも、もっと身近な職業でもいいと思うのだが。

 「変えたいの。私達の生きやすい世界にしたい。お父さんとお母さんが、首都で国会議員やってるんだ。だから、私もその背中を追ってみたい」
 「本当に!? めちゃくちゃ凄いじゃないか!!」

 美保さんは笑って言う。

 「全ては革命意識ね! 辛い状況も、意識ひとつでどうにでも変えられるわ」
 「……美保さんは凄いね」
 「そんなことないよ。谷崎くんだからいうけれど、私はそう完璧な人じゃないよ」
 「どうしてそんなこと言うの?」

 美保さんが誤魔化すように笑う。

 「谷崎くんも凄いと思うよ。成績は優秀だし」
 「そう」

 嫉妬だろうか。僕ははっきり言って美保さんが苦手だった。
 けれど、完璧人間のように見えた美保さんですら、壮大な夢に向かって必死になっていること、届かない苦しみがあることを知り、美保さんが少し近くに見えた。

『病気だからっていつもひょろひょろで不幸まみれなわけじゃない』、文島さんが放った言葉だ。
完璧に見える人間だからって、全てが幸せで満ち足りているわけがない。

「――ごめん、つい話しすぎちゃったみたい。谷崎くんも忙しいのにごめんね。帰る」
「まだ居てくれていいのに」
「夕飯の手伝いしなきゃいけないの、面倒くさいけど。じゃあね」
「あの、……また、学校で」

 美保さんは快活に頷いた。去っていく美保さんの後ろ姿を見送る。
 こんなやり手の女が幼馴染とあっては、彼がヘタレになるのも仕方ない気がしてきた。

 思えば先週から、出会いが多すぎる。文島さんとの出会い、美保さんや彼との出会い。
 世界はいつも僕にやさしくないと思っていたが、美保さんは確実に僕に優しくしてくれた。
 これからも、僕の世界は変わっていくのだろうか。そう思うと、なんだか無性にわくわくしてくる。

 

 ――そういえば、『彼』と文島さんは上手くやってるだろうか。

 サイダーの空き缶を捨てて、僕は地下病棟へと向かった。[newpage]


 一息をついて、青年は文島を見つめた。白い肌に大きな目、長く整えられた髪。周りではめったに見ないタイプの少女だ。人形のような顔立ちが綺麗だとつくづく思う。

 「それにしても手前、こんなところに閉じ込められて退屈だろ」
 「本を読んだり音楽を聴いたり映画を見たり、いろんなことが出来るからそう悪くないわよ。勉強もしなくていいしね。甘やかされてるの」
 「わかんねぇな」

 『彼』は右手で頭を掻いた。
 この少女といるとどうにも調子が狂う。この少女のそばにいるだけで、自分の奥の奥から、何かが目覚めそうなそんな気配がするのだ。まるで自分が自分ではないような。

 「そう言うけれど、外にはどんな楽しみがあるの? 外も中もそう変わらないような気がするわ」

 文島が唇に手を当てて呟いた。

 「外には、いいものがいっぱいあるぜ。例えばほら、うまい食い物だとか、友達とか、景色とかよ」
 「景色はテレビと何が違うの? 友達だって私には谷崎がいるし、食べ物だって病室に運んでもらえばいいわ。どうして外でないといけないの?」
 「生き物にとって、外にいるのが自然だからじゃねぇの」
 「私にとっては屋内が自然よ。それに生物の本能を引き合いに出すなら、巣穴で休むのが自然じゃないの? ねぇ、中と外とは何が違うの? 答えて?」
 「んなこと言われたってわかんねぇよ。俺は馬鹿だからよ」
 「私はそうは思わないわ」

 文島は強い目で『彼』を見た。

 「谷崎は散々に言ったけど、私はあなたのこと、馬鹿だなんて思ってないわ。そんな立派な身体もあるし、家のために働きに出る強靭さだってあるじゃない。どうして、自分は臆病で馬鹿でとろいなんて決めつけて、可能性を狭めるの?」
 「俺はそんなに立派な人間じゃねぇよ……!」
 「立派でなくとも自立したまっとうな人間だわ。それだけで十分凄いわよ」
 「……よせよ……」

 『彼』は口に手を当てて目を伏せた。はっきり物を言える文島がまぶしく感じる。

 「ねぇ、外と中との違いってなぁに?」

 文島がねだるような視線を向ける。上下する唇が、彼の視線を捉え、離さない。

 「受け売りなんかじゃない、あなたの答えを聞かせて」

 彼は不器用で、あまりにも素朴だった。彼女と美保とは、自分の魂にとって別格の存在なのだ。気づいてはいても、その感情を言葉にできず、ただ表情をこわばらせて、文島を見つめ返す。数秒の思考を経て、『彼』はぼそぼそと呟いた。

 「空気だろうな。朝夕は冷たいし、夏は熱くて、冬は寒ぃ……ここには、それがねぇんだ……」
 「空気。確かに、ここでは何も感じることができないわ。私はそんな素敵なものを知らなかったのね」

 文島の瞳は深い黒に染まっていた。青年は激しい動悸を覚えながら、彼女の瞳を覗き込む。たった少しの会話は既に枷となり、彼の魂をきつく締め上げていた。
 狂い出しそうだ。
 彼は必死で言葉を探し、文島に捧げる。

 「教えてやるよ」

 ありがとう、と文島が笑う。首を傾けたせいで黒髪がふわりと揺れ、流れた。なんでもない会話のはずなのに、心の奥底で興奮を覚える自分がいた。震えながら問いかける。あの、と前置きし、

 「触ってもいいか?」
 「構わないわ」

 突然こんなことを言い出す自分、許可を出す文島。異常であることは十分わかっていた。
 右手をそっと文島の頬に添えた。意外にも彼女の肌は乾燥しておらず、滑らかな弾力を与えてくる。自分のごつごつした手では痛いだろうなと彼女を見やるが、文島はゆるく目を伏せ、彼の手を甘んじて受け入れていた。
 彼女に直に触れてやっと、青年は気づく。

 文島の一挙一動に、激しく揺れ動く感情。

 この感情にいちばん近いものは、――食欲だ。愛情ではない。対象を噛みちぎり、喰らい、自分の一部にしてしまいたいという欲求。

 彼はベッドに腰掛け、文島の細い肩に両手を置いた。そのままおもむろに身を近づけ、白い首筋を甘噛みした。自身がどうしようもなく昂ぶっているのを感じる。文島が目を細めて吐息を漏らした。
 ああ、このままこの首筋に歯を立て殺してしまえばどんなにいいだろう。猟奇的な妄想に浸りながら、『彼』は文島の首筋に何度も噛み付いた。

 「あいつから聞いてはいたけど……ほんとうに躾がなってないじゃない? これでは獣だわ」
 「なら飼い慣らしてみろよ」

 唾液で濡れた肌から口を離し言い放つ。文島は高飛車に笑い、彼を己の胸に抱き寄せた。彼女の鼓動の音と、強気な声音が重なる。

 「いいわよ。怪獣じみたあなたに、私が人間を教えてあげるわ」
[newpage]

 病室の扉を開くと、文島さんと彼の視線が一気に僕へ向けられた。『彼』はスツールに腰掛け、文庫本に目を通してている。彼の視線が何かに怯えたようだったので、笑いながら声を掛ける。

 「どうしたんだ、君みたいな脳筋が本に目を通すなんて。明日は雪だな」
 「別に変わったことはないわよ。――ねえ、そろそろ面会時間が終わるわ」

 文島さんが甘ったるい声で言った。

 「そうそう、上に美保さんが来てたよ」
 「げっ……。あ、美保っていうのは俺のクラスメイトなんだ。谷崎とも友達で」
 「そして君は美保さんにおんぶにだっこ。しっかりした幼馴染がいてよかったね」
 「余計なこと言ってんじゃねぇ!」

 彼が顔をしかめる。文島さんは上機嫌に目を細めた。

 「とりあえず俺はもう行く……じゃあな、文島。絶対にまた来るから」
 「はぁい」

 文島さんは心底愉快そうに手を振った。美保さんのことをからかわれたのを怒ったのか、彼は乱雑に扉を閉めてどすどす歩いて行った。にやにや笑いながら文島さんに話しかける。

 「やぁ、新しいおもちゃはどうだったかな? 僕よりは扱いやすいだろう。彼は木偶の坊だから」
 「あなたって本当に悪趣味よね」
 「そんな僕を友人にしたんだから君も大概だよ」

 混ぜっ返すと、文島さんは舌舐めずりをした。

 「そういえば私達、どちらも対人関係が少ないのに、すぐに意気投合したわよね」
 「そりゃあ、あの本のおかげだろう? 『すぐ他人と仲良くなれる!』とかいう」
 「私も最初はそう考えていたけど、違うみたいだわ。初めは同族嫌悪していたけど、少し話してそれが取り払われただけなのよ。似た者同士なんだわ、私達」
 「どういうことだい?」

 彼女が言わんとしていることが分からず、僕は首を傾げる。文島さんは薄ら笑いを浮かべた。

 「私も悪趣味ってこと」

 その言外に隠された意味を分かるはずがない。しかし、その微笑に、弓子さんと同じような気味悪さを感じた。

 

少年たちはぶつかり合う

 終業の挨拶が終わった瞬間、青年は教室を飛び出した。海沿いの道路を自転車で飛ばし、山道を駆け登る。息を切らしながらも、彼の顔は笑みであった。

 文島希に会いたい。彼を突き動かすものは、ただそれだけだ。

 三日前、緊張と興奮でうまく挨拶出来なかったことが懐かしい。普段彼は美保以外とはまともに会話できなかったが、文島の笑顔、髪、顔立ち、細い手、声、全てに魅了されていた。
 馬鹿にされてばかりだった自分を認めてくれた、というのももちろんある。しかし――自分自分の核にある何かが、本能的に文島を求めているのだ。
 面会許可をとり、文島の元へ向かう。扉を開くと、読書をしていた彼女がこちらを向いた。

 「ただいま」

 彼女は一瞬驚いた表情をして、しかしすぐに笑みになる。青年の名前をいとおしそうに呼び、

 「おかえりなさい。また来てくれたのね」
 「絶対に来るって言っただろ」
 「ああ……」

 文島は感極まってため息をつく。その仕草も彼の心臓を高鳴らせた。
 すきだ。文島、手前を骨の髄まで咀嚼しちまいてぇよ。胸は脂っぽくて柔らかいだろうし、太股なんかいかにも旨いだろうな。髪の毛も一つ一つ舐めてしまいたい。つくづく食欲をそそる匂いだと思いながら彼は生唾を飲み込んだ。
 俺は間違いなく文島の事が好きだ。しかし、突然告白されても彼女は困惑するだろう。何より「好きです、あなたを殺したいし食べたいです」なんて言ったら引かれまくって面会謝絶に決まっている。
 彼はひととおり学校や家でのことを報告した後、おずおずと文島を扇ぎ見る。

「あの、……いつもの、やってもいいか」
「あなたが求めるならね」

 文島は素っ気なく返した。『彼』は荷物を置き、文島の肩から優しく髪を払う。晒された白いうなじに、軽く歯を立てた。犬歯が肌に沈み込む感覚がたまらない。柔らかい弾力が彼を昂らせた。
 両腕で彼女を抱きしめ、首筋に何回も歯を押し当てる。滑らかな白に、少しずつ歯型がついていった。

 「ふ、み、しま……すきだ……」
 「この、……行為の、何が楽しいの?」
 「傷痕――を、付けたいのかもしれねぇな」

 自分で言ってから、『彼』は思い切り赤面した。これでは性欲と混同されてしまうかもしれない。俺はただ彼女を殺し、食べてしまいたいだけだ。
 彼は慌てて訂正する。

 「違う、俺は手前の首を噛み千切って食っちまいてぇんだ」

 あ、これ頭やばいやつだな。俺は馬鹿だから思ったことをすぐ言っちまう。
 『彼』は自分の血の気が引いていくのを感じた。しかし、文島はくすくすと笑った。

 「私を殺す? 家族も施設の人も皆私を生かそうとしてる中で、私を殺して食べたいですって? なんでよ」
 「何かはっきりした理由があるわけじゃねぇんだ。でもなんだか俺は、そうしなきゃいけねぇような気がするんだ」
 「不思議ね。私もあなたといると無性に気持ちが浮き立って、いつもの私じゃないみたいなの、でも、嫌じゃない……なぜかしら。私達、会って一週間も経っていないのに」

 文島はわざとらしく首を傾げ、『彼』と見つめ合った。
 『彼』は、文島の横髪を手でつかみ、さらさらと流れ落ちるその感触を味わう。彼女の細い身体を両腕で包んだ。吐息が重なり合う。文島がぽつんと呟いた。

 「宿命かしらね」

 なんでもないように発せられたその言葉を、彼はひそかに気に入った。宿命。運命は自分で変えられコントロールできるものだが、宿命は生まれつき宿っている変えようのないものだ。自分と文島は宿命の末に出会ったのかもしれない、ならばあの行為も当然のものだろう。思考を一段落させ、彼は文島を見た。

 「死ぬなよ」
 「死なないわよ……。私が死ぬのは、あなたにここを貫かれた時だわ」

 文島は、服の上から左胸を示した。

 貧相な病室に、まどろみを孕んだ夕暮れが近づく。[newpage]

 蝉時雨がひどく耳障りだ。十人もいないクラスメート皆が、めいめい下敷きや教科書で顔を扇いでいる。
 嫌いな国語の授業が終わり、昼休みに入った。

 あれからというもの、美保さんとは朝夕に挨拶する程度の仲になった。詮索しない姿勢が心地よい。彼女と話すようになってから、周囲の目が少し優しくなった気がする。

 ちなみに、『彼』とは一言も話していない。
 美保さんいわく、療養所に行ってから、彼はよからぬ連中との付き合いを避けるようになったそうだ。元々喧嘩を好まないのだが、身体だけはいいため、喧嘩助っ人に駆りだされることもしょっちゅうだったらしい。それを断るようになったというのだ。
 文島さんが彼に何か忠告したのだろうか。
 国語の資料集をぼうっと眺めていると、後ろから声がかかった。

 「谷崎くん。よかったら、一緒にお弁当食べない?」
 「う、うん」

 美保さんが弁当の袋を掲げる。奥では『彼』がふてくされていた。

 「そういえば来週、紅神様祭りがあるね。花火、楽しみだなぁ」
 「美保さん、誰かと一緒に行くの?」
 「友達みんなで行くよ」

 この離島は過疎化と少子高齢化が激しいが、夏の『紅神様祭り』は全国の教科書に取り上げられるくらい有名だ。明らかに島民人口より多い屋台が出て、島民の二、三倍の見物客が訪れる。
 机に弁当包みを置き、『彼』にも挨拶する。

 「やあ。不機嫌そうだな」

 別にどうってことねぇよ、と『彼』が返す。ラップで包まれた不格好なお握りを食べる『彼』は、ひどく眉根を詰めていた。

 「妬いてるんじゃない? 谷崎くん、療養所の女の子と仲がいいから」

 美保さんが弁当を広げながらおどけて言った。ラップのごみを鞄に突っ込んでいた『彼』がわずかに身じろぎした。あまりにもわかりやすい態度に、つい苦笑が漏れる。 「君、文島さんに気があるのか」
 「……俺が誰を好きになろうが手前にどうこう言われる筋合いはねぇだろう」
 「こいつ、療養所の女の子に惚れ込んだみたいなのよー。友達とのつきあいも全部断って、空いてる時間はぜんぶその子のところに通ってるらしいし」
 「おい!」

 『彼』が声を荒げた。周りの生徒が驚いて振り向く。しかし、本当に恋をしたというならいささか問題があるだろう。できるだけ笑い話のトーンで、

 「あのな、そういう下劣な感情を持つのはやめてくれないか? 彼女はいいとこのお嬢さんで、うちの療養所の入所患者だ。まともな病気じゃないんだぞ。間違いがあったら困るんだ」
 「間違いってなんだよ!? 話してるだけでガキ孕むとでも思ってんのか。それとも俺が簡単に手を出す下衆野郎に見えんのか」

 彼がだんだん苛ついていくのが分かった。

 「そう言われてもね、念には念を入れて」
 「ただの女にだって絶対そんなことするかよ。その上文島は病気にかかってんだぞ!? 手前らから見れば俺はうすのろの馬鹿だ。だがよ、いきなり文島をどうこうするほど落ちぶれた覚えはねぇ!」

 彼の威嚇はなかなかのもので、周囲が竦み上がる。見かねた美保さんが止めに入る。

 「それに、あんな女のどこがいいんだよ」

 つい口をついて出た言葉に、『彼』の眼光が一気に鋭くなる。

 「彼女は半分死体みたいなものなのに」
 「……手前なぁ、もういっぺん言ってみろや」
 「彼女はそう遠くないうちに死ぬ。死の見えている人を愛するなんて無意味だ」
 「そういうなら手前だっていつか死ぬだろうが! 俺は文島が好きだ。その気持ちに意味なんて求めてねぇ!」
 「わからないな」

 黙ってやり取りを聞いていた美保さんだったが、ついに立ち上がり、『彼』と僕を心配そうに見上げた。

 「何怒ってるの。せっかく一緒に食べてるんだから仲良くしよう」
 「仲良く」

 『彼』のこめかみがぴくりと動いた。
[newpage]

 彼が苦々しい声で言う。

 「んなもんできるかよ! 谷崎、手前、俺のこと見下してるよな」
 「見下してなんかないわよ、あんたの被害妄想でしょ」
 「もういい。俺ぁ帰る」

 拗ねたというにはあまりにも凶悪だった。
 十人もいないクラスメートの視線を一身に浴び、しかし彼は席を立つ。鞄を抱えて部屋を出て行った。教室は水を打ったように静まり返る。どことなく皆との距離を感じた。
重苦しい沈黙を割り、美保さんの取り巻きの女子が囃し立てる。

 「谷崎君、地味系だと思ってたけど結構やるじゃん。文島って誰―?」
 「やめなよ。……谷崎くんごめんね。私が変なこと言っちゃったせいで……こんなふうにしたかったわけじゃないのに」

 美保さんがこうべを垂れる。

 「いいよ。でも、文島さんに恋をするのはやっぱりどうかと思うから」
 「そこは譲れないの?」

 問いかけには答えなかった。納得行かないまま弁当を食べ続ける。
 美保さんは少しためらったのち、鞄からファンシーな紙包みを取り出した。大きさは筆箱くらいだろうか。

 「これ、谷崎くんに渡そうと思ってたの。だから今日、声かけて」
 「なにそれ。いいよそんなの、僕、美保さんに何もしてないじゃないか」
 「この前、療養所で会ったじゃない? 元気出してほしいなって思って、私から。迷惑なら、いいけど」
 「そ、そう」

 断るのも悪い気がして、その包みを受け取った。
 美保さんがあまりにも出来過ぎてついていけない。それとも気遣いができる人間ってこんなにぽんぽんプレゼント渡すのか? 違うだろう。これってもしかして美保さん僕に気が――

 「明日土曜日だからボランティアの日でしょう? 多分あいつと会うことになるわよね。なんとかいなしてやって」


 ああ、狼男お世話係交替の礼金ですか。

 ……ですよねー。

 昼休み後、美保さんと一緒に教師に平謝りし、その後は自転車を飛ばした。息も荒いまま部屋に帰り、鞄を放り出してプレゼントの包みを破る。しかし中身は、

 「……ストラップかよ」

 脱力し、そのまま大の字に寝そべった。
 美保さんのプレゼントはビーズのストラップだった。青と水色、透明の珠が連なっている。僕は携帯なんて持ってないし、それにしたって女子っぽいデザインだ。
 美保さん、贈り物のセンスあんまりよくないな。エナジードリンクのほうがまだありがたかった。それでも彼女の好意を無駄にするわけにもいかないし、壁に虫ピンで留めて観賞用にでもしよう。
 それにしても、明日本当にどうしよう。あの狼男が僕をあっさり許すとは考えられない。
 天井をぼんやりと見ていると、視界の端に一匹の蚊が映った。照明近くをふらふらと飛び回っている。それを目で追っている内、美保さんの言葉を思い出した。

 『紅神様祭りがあるね。花火、楽しみだなぁ』『友達皆で行くよ』

 これだ。
 花火に文島さんを誘い、彼女をダシにして『彼』と仲直りする。いい作戦だ。セコいけど。
 電話を掛けようと意気込んで立ち上がると、足元からパキッと不穏な音がした。

 「……あっ」

 美保さんのストラップは、僕の足の下でばらばらに千切れていた。

 

谷崎は吐き出す

 一週間ぶりに訪れる病室は華やかに様変わりしていた。
 壁には額に入れられた押し花が飾られ、サイドテーブルには花が生けられている。乱雑に積まれていた本もきちんと整頓されていた。前回の来訪時とは大違いだ。
 ……あと、部屋の隅に男物のジャージがあるのはなんでだ。『彼』のか? 『彼』のものなのか?

 「先週ぶりね、谷崎。相変わらず不機嫌そうじゃない。あなたも毎日来てくれても良かったのに」
 「犬っころを侍らせていい気になるなよ」
 「侍らせるだなんて人聞きの悪い。あなた、彼を木偶の坊だの暴れ牛だの散々にこき下ろしてるけど、親でも殺されたの?」
 「骨を折られた。君こそ、あいつとだいぶ仲がいいみたいじゃないか。僕にはあんなにつんけんしていたのに」
 「そう見える?」

 文島さんがわざとらしく肩をすくめる。

 「君が言ってた文豪――谷崎潤一郎について調べたんだ。国語の資料集とかで読んだ程度だけどね」
 「あら、真面目なのね」
 「君は谷崎作品のような突飛な恋愛に憧れ、彼を利用して恋愛を疑似体験しようとしてるんじゃないのか。自分が病床だからって」
 「違うわよ!」

 文島さんは汚物を見るような鋭い目で僕を見た。この反応、図星だな。僕は軽蔑して吐き捨てた。

 「現実逃避もほどほどにしろよ」
 「……ちがうわよ……」

 見ると、文島さんはベッドテーブルの上で何か作業をしていた。箱とペンチとが並び、

 「手芸でも始めたのか」
 「似たようなものね。あの子が学生なのに働いているって聞いてから、何かやりたくなって……簡単なアクセサリーを作って、商店に置いてもらっているの」

 文島さんが箱のなかからアクセサリーを取り出し、こちらに見せてくる。よく見るとそれは、

 「ビーズストラップだ……」
 「何、どうしたのよ? 目見開きながら肩掴まないで、気持ちの悪い!」
 「いや、知り合いから似たようなものを貰ってさ。これってきみが作ったもの?」
 
 たまたま鞄に入れっぱなしだったストラップをベッドテーブルに置く。文島さんはまゆをひそめた。

 「私、こんなぐちゃぐちゃに壊れたものを出した覚えはないのだけれど」
 「僕が踏んで壊したんだ」
 「なんで壊すのよぅ……! そんなにこれが気に食わなかったの?」
 「違う、事故だったんだよ」

 だいぶ傷ついた表情をされたのでフォローする。頼むから人の話を最後まで聞いてくれ。事情を話すと、文島さんはストラップを直すことを了承してくれた。
 それと同時に、背後で扉が開く。入ってきたのは案の定『彼』だった。

 「あら、あなただったの」
 「よう」

 『彼』は文島さんに笑いかけると、僕に目線を移した。
 一瞬複雑な表情が浮かんだがすぐに消え、彼はぺこりと身を折る。

 「昨日は大人気なかった。済まねぇ」
 「えっ、あっ……わ、分かってくれればいいんだ」

 意外すぎてうろたえてしまった。言葉を重ねる余裕もなく『彼』はさっさとエナメルバッグを置き、スツールに腰掛ける。文島さんもそれが当然であるかのように何も言わない。この空間にとって自分は部外者なのかもと感じた。

 「来週、『紅神様祭り』っていうのがあるんだ」
 「こうじんさままつり?」

 文島さんが首を傾げた。『彼』が付け加える。

 「伝統の夏祭りなんだ」

 「こうじんさまって何?」
 「俺もあまり詳しくねぇんだけど、ここらへんじゃ、『紅神様』っていう土着の神様があるんだ。本土からいわゆる荒神信仰が伝わって、長年の歴史のなかで色々変わってって、独自の神様になったらしい」
 「その神様がどうして、そんな盛大なお祭りに繋がるのよ?」
 「紅神様はまぁ、地荒神の一種だ。つまり、祟りやすいが、気に入られば安全とか幸福とかをもたらしてくれる。だから盛大な祭りを紅神様に捧げるって訳だ。花火とか出店はもちろん、山車の練り歩きみてぇのもあるし、神社のほうじゃ神楽やるってよ」

 文島さんが納得したようにうなずき、話をまとめる。

 「つまり、怒らせると怖いけど権力を持った土着神がいて、その神様の機嫌を取るために楽しいお祭りをするってことね」

 説明下手をなじるように『彼』を見やれば、「文島には伝わったんだからガタガタ言うな」と一喝された。溜息をひとつ付いて、

 「それで、ちょうど土曜日だし、よかったら一緒に花火を見ないか」
 「外出許可が出ないでしょうね」

 文島さんが悲しそうに顔を歪める。しかし、

 「外出なんてしなくてもいいよ。上階があるじゃないか。『海を一望できるケア』が売りなんだぜ、景観は一級品だ。君はいいとこのお嬢さんで、僕は院長の息子だ。分かるね?」
 「そりゃ夜だから日は昇ってねぇがよ、それでも突然容態が悪くなったりしたらどうすんだ」
 「もちろんそれも考慮して、昨日電話をかけて相談したんだ。文島さん、ずっと容態が安定してるらしいし、来週なら準備期間が作れるそうだ。本土の大学病院では、小児病棟に入院している子供に花火を見せましょう、なんてプロジェクトもあるんだよ。ここでだって実現の可能性は十分にある」
 「そう、なの……?」

 僕が言うと、『彼』は僅かに微笑した。文島さんはぽかんと口を開けていたが、やがて顔が歪み、じんわりと目を潤ませる。

 「……火ね。……見たことないわ……」
 「うん」
 「っ、あ、しが……竦むでしょうね……」

 顔を腕で隠すものの、声は涙で滲んでいた。『彼』が文島さんの肩を撫でながら僕を睨む。あっちへいけ、と手で払われた。
 気の強い文島さんは泣き顔なんて見られたくないだろうから仕方がないが、大変心外だ。僕よりも『彼』に心を許しているのは少し気に食わない。
[newpage]
 休日が明け、終業式が行われた。

 昨日のことを思えば、『彼』があんなに素直に謝ったのも、文島さんの前でことを荒げたくなかったからかもしれない。その証拠に彼は、面会終了時間までずっと彼女の傍を離れようとしなかったからだ。

 集中力が完全に切れ、あたりに視線をさまよわせる。
 そういえば美保さんは委員長だから、最前列に座っているんだった。
 三つ編みの後ろ姿は難なく見つかった。背筋をのばし、校長の話に耳を傾けている。彼女を声もなく見つめていると、不意に彼女が振り返った。完全に目線がぶつかり、美保さんはほんのすこしの間僕を見る。

そして、舌を出して笑った。

 予想だにしなかった反応に動揺し、ただ彼女を見つめ返すうち、美保さんは前へ向き直る。苦い後悔が胸に残った。
 なんでもっと愛想のいい反応ができなかったんだろう、手でも振ればよかったかな。

 嫌われていないといいけど。


[newpage]

 紅神様祭り、当日。
 療養所では無事、花火鑑賞会が行われることになった。
 五階のホールには、まばらに患者の姿が見られた。僕たちより小さい子も、高齢者もいる。入り口では看護師達が顔を見合わせて話をしていた。

「谷崎! 本当に見られるそうよ! 信じられる!?」
「信じられるも何も、僕が言い出しっぺなんだぜ」

 文島さんがはしゃいでいるので、冷たく言ってやった。
 車椅子に乗ったまま、点滴に繋がれたままでも彼女の表情は晴れやかだ。ガラス越しの暗い海を、期待に満ちた目で見つめていた。
 『彼』といえば、自販機で購入したミルクセーキをひっきりなしに口に運んでいた。そして横目で文島さんをちらちらと見ている。
 こいつにはもういい加減うんざりしてきた。

「上がるぞ」

 腕時計をちらっと見て、『彼』が低くつぶやいた。
 電気が消され、奇妙な緊張が伝わる。

 黒、黒、真っ暗な空に、ひびが入る。
 鋭い火花が走り、直後、白い太陽が夜空に爆裂した。鮮やかな色彩が全天を彩り、水面に光が照り返す。遅れて雷のような重低音が響いた。
 横で文島さんが息を呑んだ。『彼』の裾を握る細い手が震えている。普段やりあっている姿とはかけ離れ、小さな子どものようだった。
 また一発、一発と花火が上がっては散った。文島さんの瞳は、きらきらと空に溶ける花火を映している。

脇ではしゃいでいる子供が、文島さんに声を掛けた。
「おねーちゃん、花火、きれいだねえ!」
「そうね。花火を見るのは初めて?」
「あさひね、四歳だからー、三回見た! でもね、ここから見るのは初めてなんだ」

黒の短髪の、顔立ちの整った男児だ。なんとなく見覚えがあるような気がするので、僕は彼に声をかける。

「あさひくんって言うの? 僕は谷崎。よろしくね」
「うん! ぼくねー、とつみやあさひ! ねーおにいちゃん、これ持っててー!」

 あさひ君は満面の笑みで言ってのける。待て待て、都都宮なんて苗字は珍しいから、この子は弓子さんの息子じゃないだろうか。とするとこの子と僕は異母兄弟の可能性が高い。
 片や未来の美男子、片や眼鏡そばかすのヒョロもやし。父親は同じはずなのに何でこんなに顔面が違うんだ、クソッ。
手渡された紙袋には、線香花火とライターが入っていた。

 あさひ君はサッシに額を押し付け、花火が一発上がる度にはしゃいでいたが、しばらくすると眠くなったと言って奥へ引っ込んでしまった。おねえちゃんおにいちゃんばいばい、目をこすりながら手を振る背中を、何も知らない文島さんは愛おしそうに眺めていた。そして、

 「これは、紅神様に捧げる花火なのね」

 文島さんがぼんやりと呟く。ああ、と『彼』が返した。彼女はおもむろに車椅子を窓辺へ動かした。赤い蓮の髪飾りから数枚花弁を抜き取り、サッシ戸を開いて空へ奉じた。赤の雫が、夏の夜風に晒されて彼方へ飛んで行く。綺麗だと彼が言う。

 「……私もあんなふうに死ぬのかしら?」

 ふと漏れた言葉に、『彼』が凍りついた。またセンチメンタルないちゃこらが始まるのかと思いっ切り半眼になってみせた。呆れて息をついて、

 「僕はもう帰るよ」

 『彼』がうろたえて返事を返した。それを無視してずんずん歩く。
 年配の看護師にぶつかりそうになって、弓子さんのことを思い出した。
 僕がナースセンターに電話をかけた時、応対したのは弓子さんだった。先日の嫌味を微塵も伺わせない明るい声。文島さんの病状について大雑把に話してくれた上、花火鑑賞にも協力してくれた。それを大人の対応というのなら、僕も何事もなかったように弓子さんにお礼を言うべきだろう。これは貸しだと後でゴネられないためにも。

 そう考え、僕は弓子さんの姿を探す。人気のない廊下をさまよっていると、処置室から明かりが漏れていた。彼女の声も微かに聞こえる。
 声を掛けようとして僕は固まった。

 僅かに開いたドアの向こうには、信じたくない世界が広がっていた。

 父の膝の上に弓子さんがまたがり、切なげな目線を交わしていた。唇を重ね、手を組み、肌に触れ合って、部屋は熱情に汚染されていた。弓子さんの声で、なにか聞こえる。ねだるような、女を丸出しにした声、声、声――……。嬌声。母の顔が脳裏をよぎった。
 その先は見たくなかった。わかっていたはずのことなのに。
 たまらず駆け出し、男子トイレに飛び込んだ。洗面台にしがみつき、呻きながら嘔吐する。透明な胃液だけが口端を伝う。

 顔を上げた。

 そばかすの浮かんだ顔の少年が僕を見つめている。瞳は酷く虚ろだった。その瞳を抉り出し、脳を押し潰したら、今の光景は嘘になってくれるだろうか。

 僕はひとりきりで嗚咽し続け、何も出なくなった頃、家へ帰ることにした。

 祭り囃子がひどく滑稽に響いていた。

 

文島は呪う


 「真理ちゃん、おかえりなさい」

 帰った時、時刻は二時を回っていた。祭りに浮かれる外とは裏腹に、家には不気味な静けさが漂っている。母は泣きはらした顔をしており、顔面に大きな痣ができていた。痣について聞くものの、転んだだけだとはぐらかす。

 「馬鹿にするな! 転んだだけでそんなひどい痣ができるわけないだろ!?」

 母はうつむき、何も応えない。とすると、

「……あいつかよ!?」

 兆候はあった。尊大で自己中心的、呆れるような行動しか取らないあの男。僕達に暴力を振るわないのは無関心の証拠だと思っていたが、単にきっかけがなかったからだろう。
母は浮かない顔のまま僕を寝かしつけようとするが、従うわけにはいかなかった。

 その内、電話がかかる。こんな遅くにどこのどいつだ。
 「はい、谷崎です。……真理ちゃん、お友達」
 母から受話器を受け取り、憮然とした声のまま応える。くぐもった低い声。『彼』だった。僅かに焦りの色がある。

 『遅くに悪ぃ、美保が出なかったからかけちまった。文島のことなんだが、』
 「知るかよそんなの! 僕が君たちの恋路に否定的なのは知ってるだろう!」
 『わかってるけど、でも』

 彼が何かを言いかけたが、強引に電話を切った。母と押し問答を続けていると、不意にドアが開いた。
 あいつだ

 「谷崎か。突っ立てないで部屋に戻れ」
 「その前に、母さんの痣について説明してくれよ。あんたがやったんだろ」
 「お前には関係ない」

 父が靴を脱ごうとするが、立ちふさがって制止した。彼は眉をひそめ、

 「思い上がるな。誰のおかげで飯が食えていると思ってる!」
 「女は家で尽くせって、古臭い考えで母さんを縛ってるのはあんただろうが! そのくせ気に入らないことがあれば暴力かよ!」

 呆れるほどの理不尽に、内臓が溶けていくようだ。靴べらスタンドを蹴り、父の目を激しく睨みつけた。父の目は怒りで据わっている。

 「俺の何が気に入らねぇって言うんだ。お前らを養うために働いて、今日だって」
 「あんたは僕達のこと虫けらぐらいにしか思ってないんだろ! 都都宮弓子。車を買ってやるんだってな!」
 「ごちゃごちゃ言うなッ!」

 顔を真っ赤にして、父が僕に向かって拳を振り上げた。頬に鋭い一撃が入り、僕は床に倒れ伏す。でも父に向き合うことはやめなかった。どれだけ顔が腫れ上がろうがもう知ったことか。

 「育ててやった恩を仇で返しやがって。お前なんか俺の息子じゃねぇ!」
 「それならあんたなんか父親じゃない!」
 「いいだろう、じゃあとっとと荷物をまとめて、あの女とここから出て行け!」

 叫びながら、殴られながら、ひどく胸が痛んだ。玄関の段差で頭を打ち、激しい耳鳴りが始まった。母が僕に馬乗りになった父にしがみつく。

 「あなた、やめて!」
 「うるせえ! お前は何様のつもりだ! 俺に命令できるほど偉いのか!?」
 「ごめんなさい」

 母は、何も逆らわずに頭を垂れた。

 「私が原因なら私が謝ります。ごめんなさい」[newpage]

 そして僕の方をちらっと見て、謝罪するよう促した。僕は思い切り噛みつく。

 「なんでだよ! 母さんこそ怒るべきだろ!? こいつのせいでどれだけ人生が、」
 「真理ちゃん。早く」

 その顔は蒼白だった。母の視線に負け、僕は起き上がって頭を下げた。僕が殴られるのはかまわないが、僕のせいで他人に害を与えたくはない。

 「……すいませんでした」
 「何が悪かったのか言ってみろ」
 「何もわかっていないのに馬鹿なことを言ってすみませんでした」

 彼は怒りが静まらないようで、椅子に大仰な音を立てて腰掛けた。違うだろう、と告げられた。そして、下を指差してみせた。

 「土下座して謝れ」

 頭を下げて口で言うだけでプライドを満足させられるなら安いものだ。
 心はいらない。
 エントランスの冷たい床に、額を擦り付ける。

 「何の稼ぎもなく、何の地位もない、クソガキのくせに、ここまで養って、育ててくださったあなたに、生意気な口をきいて、すみませんでした」

 声が震えた。
 僕を鼻で笑う声が聞こえる。頭をたれたままの母、ふんぞり返るあいつ、玄関口で土下座する僕。他人から見れば酷くシュールな光景だろう。確実に壊れていた。
 無性に、きれいな水が飲みたくなった。

 何秒経っただろう。父に部屋に戻れと告げられた。
怒りを治めるためゆっくりと階段を上った。これから父は療養所に戻るらしい。残された母はまた暴力に晒されるのだろうか。部屋に入り、壁に拳を一発打ちつけた。鈍い痛みが伝わってくる。
 父さん。僕ははじめからあなたを嫌いたかったわけじゃなかったんだ。

 口の中が酷く渇く。
 この渇きは、いったいどうやったら満たせるのだろうか。

 一息ついてベッドに倒れこむと、あさひ君から預かったままの紙袋が目に入る。返さなければならないとは思うが、ひどく眠い。

 二人のために何が出来るだろうと考え、僕は部屋の電気を消した。
[newpage]

 「あれーっ、さっきのめがねのお兄ちゃんはー?」
 「谷崎ならもう帰っちゃったわ」

 あさひがトイレから戻ってきた。その頭を撫でながらやさしく話しかける文島。

 「じゃあおねえちゃんとおじさんだけかぁ」

 谷崎と同い年だというのに、おじさん呼ばわりされた『彼』が固まった。文島はこらえきれずに吹き出す。あさひはその二人の様子を不思議そうに見た後、ぷぅっと頬を膨らませた。

 「あさひ、あのお兄ちゃんに花火セット預けてたのにー。またママに買ってもらわなきゃ。ママとねーあさひとゆうひでね、花火すんのっ!」
 「そう。ゆうひって、あなたの兄弟?」
 「ゆうひはね、妹だよー!」

 あさひがニッコリ笑った。それから彼は、花火がより綺麗に見えるところを探そうとフロアを駆けまわる。残された文島は『彼』の手を握り、寂しそうに呟いた。

 「……私にもお兄ちゃんがいるのよ。一人は高校生で、もう一人は大学生なの。離れて暮らしてるから、ほぼ一人っ子みたいなものなんだけどね」
 「俺も兄ちゃんがいたらしいんだが、俺が生まれる前に死んじまったらしい。兄弟、欲しかったな」

 それから少しためらって、少し照れながら、あるいは遠慮がちに切り出す。

 「もしも結婚したら、子供はたくさん欲しいな」
 「そうね。家計は大変だろうけど、頑張ってちょうだい」

 いつもの文島のようにからかうわけでも、妖艶に誘ってくるわけでもなく、とそっけない態度だった。

 「あのよ、文島。俺ぁ手前に言いてぇことがあんだ」
 「なぁに?」
 「俺はずっと馬鹿にされてばっかりだったんだが、手前に出会って、いろんなもんの見方を変えることができたんだ」
 「そう……ありがとう。私も、あなたに大切にしてもらえて嬉しかったわ」

 文島は花火を見ながら柔らかく笑った。
 口の中から水分が一気に引いていく。心臓の鼓動がうるさいくらいに脳に響く。目を見開いて文島を見る。――文島が彼の方を見た。
 口を開く。


 「――俺と付き合ってくれ」

 

 「ごめんなさい」

 文島はすぐに応えた。

 「私、あなたの恋人にはなれない」
 「……どうして?」

 聞いてはいけないとわかっていたが、つい身を乗り出してしまった。「私に価値がないからよ」
 「価値のないやつなんて好きになるかよ」
 「私は外に出られないのよ?」
 「話してるだけで手前を好きになったんだ。今更外へ出られないなんて些細な事だろ」

 鋭く返すと、文島はいきなり形相を変えて彼を睨んできた。

 「……もう、じれったいわねッ! あなたなんか嫌いよ。嫌い、きらい、だいっきらい! 私は文島の令嬢なのよ。あなたみたいなのと私が釣り合うわけないでしょ! 恋愛対象になんてならないのよ。たったあれだけの会話で勘違いしないで!」

 高い声で罵倒するが、彼は何も言わなかった。文島はしばらく無言でいたが、やがて彼に問いかける。

 「……傷ついた?」
 「いいや」

 彼は大きな溜息をつき、しかし困ったような笑みで文島を見た。

 「最初に会った日、『皆がどう言おうと馬鹿だとは思わない』って言ってくれたろ。……俺があの言葉にどれだけ救われたか、手前にはわからないだろうな。世界の見え方が変わったんだ。……手前の言葉を受け止められるくらいには、強くあれるぜ」
 「あら、あの言葉も嘘だったとしたら?」
 「本心でどう思ってたとしても、沈んでいた俺にああいうべきだと考えて、手前はああいう言葉を掛けてくれたんだろ」

 『彼』は泣くことも罵ることもせず、背筋を伸ばして立っていた。
 文島は『彼』を呆然と眺めていたが、機嫌悪そうにうつむいた。

 「帰って」
 「帰る理由がない」
 「私が不快なのよ! 帰ってって言ってるでしょ!」

 大きい声で叱ると、『彼』はやれやれと肩をすくめる。

 「帰る。でも、また来るからな」

 文島は何も応えず、振り向くことすらしなかった。『彼』はエレベーターに乗り込もうとしたが、跳ねまわるあさひの姿を見つけ、文島の元へ行くように頼んだ。

 文島といえば、袖で顔を拭いながら、谷崎に言われた言葉を思い出していた。

 『君は谷崎作品のような突飛な恋愛に憧れ、彼を利用して恋愛を疑似体験しようとしてるんじゃないのか』

  ひときわ大きい花火が、フロアを照らす。[newpage]

 あさひが文島に駆け寄るが、彼女はそっけなく追い返そうとした。あさひは文島の容態を察し、部屋に帰ろうと提案した。車椅子のハンドルを握り、けんめいに車椅子を押そうとする。文島は驚いて声を上げた。

 「いいわよ、やめなさい! 怪我しても責任取らないわよ!?」
 「だめ、あさひが押すの! ゆうひもね、ママがいない時、そんな顔するから!」

 あさひは幼いながらも、文島を元気づけようと必死だったらしい。文島はやれやれと肩を落とした。こんな小さい子に心配をかけるなど情けない。

 「でも、あなたにこれは押せさせられないわ。動かすくらいならおねえちゃんできるから……そうね、お話でもしましょうか」
 「だいじょーぶ?」
 「大丈夫よ……」

 あさひがくりくりした目で見てくるので、文島は作り笑顔をした。看護師に断りを入れ、先に眠ると言って帰る。
 話し相手になってくれと頼んだものの、ただでさえ他人と話せない病のひねくれた文島が、純粋な男児と喋れるはずもなかった。かちこちに固まりつつ、

 「あさひくん、ママのこと好き?」
 「えー、キラーイ! だってさ、変身ベルト買ってくれないんだもん」
 「パパのベルトで代用すればいいじゃない? つけてもヒーローになれないのは一緒なんですもの……ってあ、ごめんね、ごめんね……おねえちゃんが悪かったから泣かないで……?」

 ついいつもの調子で暴言を吐くと、あさひは目に見えて膨れた。私って子育てなんか絶対向いてない、文島の心中は半泣きである。彼女はあさひをなだめつつ、兄の使いふるしのオモチャはまだ家にあるだろうかと考えた。

 「パパ、いっつもおうちにいないの」

 あさひは不満気だったが、健気にも文島のあとについていった。エレベーターを使い、看護師の手を借りつつ最下層の個室に降りる。扉を開けて、

 「あさひ君、……おねえちゃんみたいになっちゃダメよ」
 「どういうことー?」
 「器用な人間じゃなくていいの。強い子になってね」

 あさひは釈然としない様子だったが、素直に頷いて去っていった。[newpage]

 扉が閉まり、一人残された文島はうつむいて、こらえていた涙を一粒、膝の上に落とした。自分は器用にも強くもなれなかった。涙はやがてとめどなく流れだす。文島は子供のように顔をぐちゃぐちゃにして、声を上げてむせび泣いた。
 病さえなければ自由に生きられただろうか。愚かな問いをやめることができない。
 ふと胸のつかえを感じ、壁に目をやった。あの子がくれた押し花の額が目に入る。文島は泣きそうな顔になって、誰に聞かせるでもなく弁解した。


 「元はといえば全部あなたのせいなのよ。何で現れたのよ……あなたのせいで……」


 文島は呪いの言葉を叫ぶ。


 「あなたのせいで、まだ生きたいなんて願っちゃったのよ……ッ!!」


 呪った。成長した彼の優しさも、二人で浪費した秘密も、嘘をついた夜も、自分の病も。

 生きることを諦めた自分の前に現れた彼は、確かに光だった。しかし、彼が生の光を当てるほど、文島は死の影を意識し、怯えだけを膨らます。

 そして死別と同じくらい、自分を失った後の彼が怖かった。
 彼は強くなったから、自分の代わりなんてすぐに見つけてしまう。彼の傍らに他の誰かが座って、いつかは夫婦になるなんて、全部堪えられない。繋ぎとめようとなりふり構わず必死だったけれど、死んだ後ではそれも無価値なのだ。

 薄れゆく意識の中で、彼の名を涙声で呼んだ。ベッドに体を投げ出す。

 「私の全部をあげます。だから、――彼を幸せにしてあげてください……」

 ――優しい言葉をかけて去るなんてきざな真似はできないから、いっそ叩きつけて捨ててしまおうと思ったの。そんな弱さまであなたは全部包み込んでしまったから、結局それも失敗だったけど。

 見透かされるのだけは得意ね、と文島は片頬を歪め、自嘲的に笑う。

 視界がピンホールカメラのように狭まり、やがて、黒に浸かった。
 息苦しいし、頭が痛いし、目眩がひどい。長年ベッドにいたが、今までの症状にこんなものはなかった。ああ、これが私の最後なんだ。こんなに早く唐突に来るなんて、思ってもみなかった。羊水に包まれるように頭がふわふわするけれど、この眠気に従えば二度と目を覚まさない。
 微睡みが身体を支配する。

 ――もう終わりなんだ。最後まで他人に願ってばかりで、辞世の句なんて思いつかなかったわ。


 ならせめて、こんな私を愛してくれたあなたに、


 「さようなら」


 文島は目を閉じ、意識を死へと導いた。