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周波数を合わせて

【創作短編】鮮血のクオリア/完結済

タイトル:鮮血のクオリア

ジャンル:近代イギリス ヒューマンドラマ

時期:2017年短期連載。完結済み。2万字程度

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プロローグ

 エミリアは、笑いながらナイフを振り上げない。
 ヒステリックに何度も突き立てるなんてことももちろんない。

 スマートにきれいに仕留めるときと、じわじわと毒が回るようすをうっとりと見ているときと、だいたいその二つだ。そして圧倒的に多いのは後者。骨を溶かす様子や、首から流れる朱に頬を染める様子は見ていて吐き気がする。
 弟の自分が言うのもなんだが、姉のエミリアは性格が悪い。否、歪んでいる、と言うべきだろうか。

 暗殺の依頼を受けると、まず依頼主を罵る。調査の段階でも実行の段階でもいらないことをぺちゃくちゃ、よく回る口だ。そうして実行後もぐちぐちと、間違ってもいない皮肉、屁理屈をこねくり回す。客観的に見ても嫌な女だ。何のつもりだと言えば、話せない俺の代わりだと抜かす。そしてたちを悪くするもっともな原因は、他人の前では猫をかぶっているということだ。他人の前では、天然な少女像を絶対に崩さない。姉は性格と違って聡明で、人心掌握は得意分野だ。孕んだ毒を見せることなく人に取り入る。

 嘲笑。低い笑い。

(……吐き気がする)

 しかし今日も俺は姉と仕事を行う。汚い嘘ばかり吐く唇を押さえることもなく、歪な半円を描く頬を張ることはない。赤毛をかきあげ、呆れて彼女を見るだけだ。

 簡単なことだ。姉が嘘つきになってしまったのは、少しばかり俺が関係しているからである。


 ことは、数年前に遡る。

 二年前。俺と姉は、教会で盗みを働こうとしたのを神父さまに見つかった。しかし父は病気で亡くなり、残された母は身売りをして暮らしを繋いでいると知った神父さまは、俺たち姉弟を全寮制の神学校に入れてくれた。神様の思し召し。神父さまは確かそう言っていた。

 聖書にあるのはこの世の始めと大雑把な終わりだけだ。全てが鮮明に記されていたら、読み終わる頃にはこちらの命が尽きるだろうし、いつかは本を閉じて、罪人である事を受け入れなけれならない。神様はわりと無責任だ。
 その印が、俺のこの髪。
 俺は母親譲りの燃えるような赤毛だった。主を裏切ったユダと同じ髪色とか、死んだら吸血鬼として蘇るとかで、この国では侮蔑の対象だった。
 それに加えて青白い肌、顔に広がるそばかす、やせぎすの身体、所謂花街生まれという出自。たとえ敬虔な信徒だろうと、周りも俺もまだガキだ。ついた渾名は『ジンジャー』。常に心に爆弾を抱えていた、きがする。火のついた導火線を宥めてくれたのは、いつも姉のエミリアだった。
 エミリアは同じ母から生まれたというのに、俺と似つかないアーモンド形の目、栗色の巻き毛を持つ美少女だった。寮の子供にも慕われていた……弟の俺さえいなければ。


 その日は、早く帰って姉に今日のことなど話そうと考えていた。
 無駄に古いこの赤レンガの寮は、かつてホテルだった館を神父さまが買い取ったものだ。元はエントランスだったホールを駆け抜けて、赤みがかった絨毯の上を走る。
 前からは監督生とその取り巻きが歩いてきていた。すれ違った瞬間、低く罵られた。

「ジンジャー」
「うるさい!」

 振り向きざまにからかわれて、俺はありったけの声で怒鳴り返した。取り巻きのニヤけた口元から矯正器具が覗いている。惨めさが心に湧き上がった。導火線が燃え上がる。

「言ってろ。お前ら、地獄行きだからな」

 去っていく制服姿に吐き捨てる。奥歯をきつく噛んだその時――女性の叫び声が聞こえた。俺は右方を向く。その声に聞き覚えがあったからだ。
 広間と廊下を区切るガラスは長らく磨かれておらず曇っていて、中がよく見えない。苛立ちと焦りから、近くに置いてあった花瓶でガラスを割った。硝子は老朽化してひびだらけだったので、俺の体に傷を付けることなく、あっさりと部屋の内側へ崩れ落ちる。中の様子があらわになって、俺は唖然とした。
 姉のエミリアと、金髪の女生徒がいた。姉の服は裂けて泥だらけになり、俺の鞄を赤ん坊のように抱いている。艶のある巻き毛は濡れてうねっていた。

「あら、いとしい弟君よ」

 大きな赤いリボンを付けた、金髪の女生徒が言い放った。握った拳がぶるぶると震えた。

「この、やろ……ッ! よくも姉さんにそんなことできたな……」
「あんたのせいよ。けがらわしい姦淫の子、ジンジャーの癖に」

 女生徒のその言葉で、俺の中の導火線が弾けた。床を蹴って距離を詰め、女生徒に飛びかかった。憤怒のままに、近くの花瓶を手に取って頭上に掲げる。これから何をされるのか理解した女生徒が叫ぶが、そんなもの手枷にすらならない。

「うっ! うっ! ふぅっ!」

 初めの一突きは、ただ鈍い音がした。何度も振り上げ、花瓶底で殴打していけば、女生徒の顔はひしゃげ、ざくざくと鼻が崩れていく。花瓶に赤い飛沫が散っていく様は、咲き誇るバラにも似ていた。
 姉は叫びながら、俺に縋り付いた。

「やめて!だめ、ジョージ!」

 水をかけられたようだった。
 我に返った俺は、呆然として花瓶を取り落とす。さんざんに『肉』を叩いたそれは、カーペットに触れると共に弾け飛んだ。

「ああっ……あっ……」

 俺の手には、忌まわしい『あの色』の液体がべったりとついていた。手綱を失った馬のように、筋肉の制御がきかない。身が震える。俺は必死で声を絞り出す。

「ちがう……」

 俺は、悪魔じゃない。その一心で首を振った。

「ぜんぶ、全部この髪が悪いんだ!!」

「ちがう。母さんからの赤毛でしょ、あんなものは迷信。ジョージの髪は何も悪くない。――悪いのは、あんたの怒りよ」

 俺は震えながら姉を見上げた。エミリアは眉を詰めてきっぱり言った。――絶望。

「俺はもうこの神学校にいる資格はないよ……」
「ジョージ。悔い改めれば赦されるわ」

 言葉こそ冷たいが、台詞には悲愴感がいっぱいに滲んでいた。姉にこんなことを言わせる自分が情けなかった。もうそれに応える気力はない。俺は教父様から頂いたチョーカーを外して、白い喉を姉に晒した。

エミリア。ここを、……かっさばいて」

 割れたガラスの破片を姉に差し出した。

「もう、いらないから……いたってしょうがないから……」

 エミリアは悲しそうに、愛しそうにただ笑みを深くするだけだ。おしとやかで上品で慈愛に溢れた、そんな姉らしい笑い。今はそれがたまらなく切なかった。

「ジョージ……」

 エミリアはガラスを手に取り、ひと思いに喉に突き立てた。意識が朦朧としてきた。

「ごめんね、こんなお姉ちゃんで」

 かぶりをふると、姉がうすく微笑んだ。
 純真な姉は、この日、死んだ。

「お目覚めかな」

 目に入ったのは清潔な寝室、白いベッド。この枕の柔らかさ――俺の寝室ではないな。
 傍に立って居たのは、黒いローブを着込んだ寮父だった。禿げ上がった頭に皺だらけの、ちんまりとしたおじいさん。彼は柔らかに微笑む。

 どういうことだ? あっけにとられている俺に、寮父は続ける。

「記憶が混濁しているんだね。いじめっ子にからかわれたエミリアが激昂して、そばにあった花瓶で女生徒の頭を殴った。それを通りかかったジョージに目撃され、発覚を恐れたエミリアは弟の君を殺そうとした――こういうことがあったんだよ。でも、お姉さんの事なら怖がらなくていい。彼女はもう別の神学校へ移ったからね」

 俺の貧弱さとエミリアの手加減のせいで、結局女生徒も俺も死ななかった。そういうことを、寮長は述べた。

 ――なぜだ。疑問符しか浮かんでこない。反論しようとして口を開くが、出てきたのはかすれた声だけだった。

「え――あぅあ、ぉえ……」
「ジョージ、喋ってはいけないよ!」

 寮父が取りすがる。そこで俺は、首にぐるぐる巻かれた包帯に気づいた。
 エミリアに喉を切られて一命は取り留めたが、どうやら今は声が出せないらしい。寮父から紙とペンを与えられてやっと、俺はその事実を受け入れることができた。

『違う。俺のせいなんです!エミリアは俺をかばって、嘘をついている。女生徒に聞いてみて下さい』

 崩れた筆記体を突きつけるも、寮長は神妙な口調で応える。

「エディリーティアは花瓶で頭を打たれて失神していたんだ。前後の記憶は抜け落ちている」
『違う! 彼女を殴ったのは俺だ。喉の怪我も俺が頼んだんです。姉は俺をかばったんです!』

 寮長は静かにかぶりを振った。エミリアは完全に悪者扱いされている。言いすがっても効果はないようだった。絶望してうつむいていると、寮長がドアを開け、外から誰かを呼んだ。
 入ってきたのは、あの女生徒だった。顔面がぼろぼろになってしまったようで、包帯をぐるぐる巻きにしていた。嫁の引き取り手はないだろう。後悔と同時に、ざまあみろという快感が滲んでくる畜生な自分自身を認識した。
 女生徒は俺の前でおもむろに膝を折った。

「あなたのお姉さんに酷いことをしてごめんなさい。あなたにも――」
「ジョージ、許してやってくれないか。この包帯を見ろ。彼女はもう充分すぎる代償を支払った……」

 ああ、彼女と和解させるために俺は寮父室に寝かされていたのか。冷めた気持ちが沸き上がってきた。違う。違うよエミリア。俺はこんな結末、望んじゃいない。

「ごめんなさい。悪いことをしたわ。やっと気づいたの」
 顔を滅茶苦茶にされたからな。
「こんな顔になって辛いわ。でも顔については天罰なのでしょうね」
 その辛さを、エミリアと俺はずっと耐えてきたけどな。
 「私も許したから、あなたも私を許して欲しいの」
 なんて傲慢な――。

 神様、どうして赤毛であるだけでここまで酷い目に合わなければいけないのでしょう。あなたは仰ったじゃないか。求めれば与えられると。あれは冗談だったのですか。俺にはいくばくかの御心も、分けてはくださらないのでしょうか。生まれない方が、俺のために良かったのですか。自問自答は終わらない。思考を断ち切り、俺は、ぶっきらぼうに手を差し伸べた。

 エミリアも俺も皆に迎え入れられ、監督生も女生徒もみんなでニコニコ大団円。それが人の世の最善だ。しかし、現実はそうはいかなかった。ここにエミリアは居ないし、俺は奴らを許せない。つまるところ、殴ったり怒鳴ったりしても幸福にはなれないのだ。でもそれなら、あの時――女生徒がエミリアを暴行した時、監督生達にからかわれた時――俺はどうすればよかったんだ?
 『お願いですから赤毛でからかうのはやめて下さい』と土下座すれば良かったのだろうか。
 でもそんな事をしても、あいつらの汚れきった心は変わらないだろう。泥まみれの靴で、土下座した俺の髪を踏みつけるだけだ。

 自らを殺すことは、罪らしい。神父さまに教わった。
 けれどそれなら、きたない髪色の俺も、きたない志のあいつらも、存在そのものが罪だろう。


 生めよ増やせよ地に満ちよ。けれどそれは俺には当てはまらない。

 主よ。
 どうか望みがかなうなら、俺を殺してください。

 

エミリア

 駅のホームには浅く霜が降っていた。蒸気機関車の警笛が鳴り響く。雪帽を深く被り、滑り込む黒を凝視した。

 今日は姉が帰って来る日だ。

 エミリアの転院処分から2年の月日が経った。

 姉が去ってからしばらくたって、彼女と入れ替わりに、北の学校から生徒がやって来た。ポーチエレンという名前の、明るい金髪の少女。清貧を是とする教会の地味な修道着でさえ、明るいオーラで彩る華やかな少女だった。姉が苛烈な報復を行ったことで、いじめられっ子だった俺は腫物扱いされていたが、事情を知らないポーチエレンだけは俺に優しく接してくれていた。彼女とはすぐに仲良くなり、今日の俺はポーチエレンと一緒に、姉のお出迎えに来ていた。

 ほっ、と可愛らしい声をあげて、姉は蒸気機関車を降りた。
 フリルをたっぷりと使ったぜいたくなワンピースがよく似合っていた。澄んだ瞳も、妖艶な艶のある髪も変わらない。

「わー、久しぶりだね!私がいないあいだ、何かあった?そっかぁ、二年ぶりだね!」

 エミリアがぽんぽんと肩を叩いてくる。
 顔立ちや体格はさほど変化していない。やたらテンション高くまくし立てる姉に少し辟易して、苦笑いを返す。

(……あれ)

 何かが、ずれている。その姉の笑みを見て思った。二年前の姉の笑みではない。

 何が違うか、それどころか抜け落ちたのか生まれたのかすら解りはしない。この目はこんな風にひしゃげなかった。この唇はこんな風に歪まなかった。

「どうしたの?」

 姉が眉尻を下げて目を細めた。唇は逆三角形に歪められている。笑い方、しなの作り方、話し方。その一つ一つが作為的で吐き気がした。娼婦だった母のようで――。

 そこまで思いを巡らせ、思考を止める。二年も会っていないのだ、人は変わりもする。姉が親に似た所でなにが気持ち悪い?可笑しいのは俺なのだ。そう思って微笑し、首を振った。姉は、そう、と優しく言って、ぎこちない顔でポーチエレンへ話しかける。
 しかし、姉が此処から去っても違和感は消えなかった。姉の緩慢な動作、ゆったりとした作り笑い、大げさな感嘆符。透けて見えた。

 二年前のあの日、人気のない部屋に立つエミリアを思い返す。
 今の彼女は当時とは真逆だ。

 ふと母の髪色を思い出す。火のついた、そう錯覚するかのような、燃えるような焼けるような赤。自然に生まれるはずのない、神々しいほどの鮮やかな色。
 エミリアの髪はそんな赤じゃないだろう。素朴な栗色の、豊かな巻き毛のはずだろ。俺は、黄昏の陽光で淡く光る髪に憧れていたのに。

 つくりもの。

 姉は、傷ついた自分をはりぼてで囲っている気がした。


 そんな日々が続いて、しばらく経った日のことだった。俺は姉に勉強を教わろうと、彼女の部屋を訪れた。

 しかし、エミリアの部屋は異様な様相だった。
 ベッドからは生臭い匂いが漂ってきている。共用の調理場から引っ張ってきたまな板とナイフはきっと二度と使えない。ネコの頭部を解体すためだけに調理器具を使ったと告白したら、寮長は激怒するだろう。そんなことをぼんやりと思っていた。
 俺と姉の寝る二段ベッドの下。そこは普段姉が使っているのだが、今は一面に新聞が敷かれ、新鮮な血液が漂っていた。中心近くにはまな板とナイフが置いてあり、首で体を二つに分けられたネコの死骸が横たわっている。
そして、その死骸を鼻歌交じりで刻む姉。

 慌ててメモ帳を開きペンを走らせた。筆跡が乱れるがもう構っていられない。
 私室で何をやってるんだ、この姉は。

『なにやってんだ』

 目の前に突き出されたメモに姉が顔を上げた。白い布をずり下げ、姉が笑う。つい先日、駅のホームで違和感を覚えた時の笑み。

「仕返しの用意してるの。新学期一発目からジョージが舐められないようにね」
『しかえしって なんの だれに』
「喋れないと大変そうだね、ジョージ。まあ兎に角昔私らの友達『風』だった子が、ジョージに酷いことをした。ああいうのは良くないよね。という訳で、エミリアちゃんが直々に制裁を下してあげるんだよ。そこの箱、見てみ?」

 言われた通り、部屋の隅に置かれた箱を見た。箱の大きさは俺の胸より少し下なので、一メートル四方くらいだろう。
 一歩近づく度腐臭がきつくなる。口で呼吸をしても、肉と血のいやな匂いが粘膜を刺激した。

「ーーッ、ッ!?」

 内容物を確認してすぐに一歩後ずさる。中に入っていたのは、ぐずぐずに蕩けた猫の死肉だった。この箱の中いっぱいに屍が詰まっていると思うと、腹の中のものがせり上がってくる。寧ろこれだけの惨状を見て胃をひっくり返さなかった俺に拍手をしたい。

 深い眩暈がした。
 仕返し。かの子達に、対する。そんな幼稚な理論で、こんな幼稚なことを考える人間だっただろうか。そして其れを実行する人間だっただろうか。
 俺の知っていた姉は死んだのだ。

「隣町の神学校に送られて、いっぱい考えたんだよ。私はジョージの喉じゃなく、あの子たちの首を刈るべきだった」
エミリア。やめてよ……お願いだよ』
「どうして?」

 安っぽい涙を零す俺の方に振り返って、巻き毛が肩を滑り落ちた。返り血が付け襟に垂れる。

「掃き溜めに愛を。汚れた者には鮮やかな赤を。これが私の赦し」
 悲嘆に塗れて、かすかに姉の名を呼んだ。
 エミリア。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。吐き出した言葉は謝罪などではなく、呪詛のように俺と姉を縛るだけだった。
 きっとどんな赦しを乞うても無駄だろう。俺の罪を被って姉は転院処分になり、その先で何があったのかこんな人間になってしまった。姉を変えてしまった俺の罪を自覚し、それでものうのうと生き続ける今のありさまは、主への裏切りではないだろうか。

 こんなことしたらきっともう寮には居られない、と伝える。彼女は虚ろな目で僕に語りかけた。

「いいの。裁きは私の手で下したから」

 だめだ。

 こんな考え、主への裏切りに違いない。けれどやっぱり俺は、エミリアを捨てきれない。エミリア。――じゃあ俺も、一緒に堕ちる。俺のそばに、彼女が居てくれたように。
エミリアを一人になんかさせない」
 俺はエミリアに身を寄せた。人の身の熱がある。
 人間愛は温かいものだ。ならばこの姉の中には、俺の中には、まだ人間の愛が生きているということだろうか。
 寄り添って伝わってくる、かすかな鼓動が痛かった。


 その後すぐに俺達は神学校も寮も飛び出し、人殺しを生業とするようになった。
 姉は最初から復讐のためだけに帰ってきており、神学校を卒業する気などなかったらしい。

 けれどやはり、清廉だった姉には鮮血は似合わない。
 姉は外面だけが成長しその本心は一歩たりとも成長せぬまま十六歳を迎えた。果たしてどうだろうか。割れた皿をもう元には戻せないように、歪んだ姉はきっと昔に戻りはしない。俺も、過去の姉ばかりを押し付けて縛る人間にはなりたくない。けど、今の姉なら、分からないこともないはずだ。

 エミリア。もう一度、他者に希望を見いだせないか。もう一度、飾り気のない笑いをだれかに見せてはやらないのか。
なあ、たまには昔話をしよう。割れた皿を元に戻せないなら、いっそ全て砕いて、また形を作り直せばいいんじゃないだろうか?

 砕き手は、――ユダたる俺だ。

 

人々

 その後俺が真っ先に連絡をとったのは、神学校での友人・ポーチエレンだった。

 帰ってきたエミリアは決して口を割らなかったが、二人は親交があったらしい。成長し教会で働き、街の悩める子羊たちを導くポーチエレンなら、もしかすると姉を殺すことなく、幸せになる方法を教えてくれるかもしれない。愚かしいが、そう考えたのだ。
  教会のステンドグラスを通して、色あざやかな光が床に照っている。陽光に彫り出された図画を見て、眩しさに目を細めた。
  荘厳な雰囲気とは裏腹に、講堂は空っぽだった。奥で一人、鮮やかな金髪の修道女が説教台を布で掃除している。やがて彼女はこちらに気づき、ぱあっと顔を輝かせながら駆け寄ってきた。

「久しぶりだね」
「……ポーチエレン」

 濃い花の香りに包まれ、女性が笑いかけた。
 さらさらの短髪は金に輝き、整った唇が花のようにほころぶ。小柄な体型が顔立ちのあどけなさを強調していた。

「ここに来るのは久しぶりだね、ジョージ。暇なのかな? ふふっ。手伝いしてくれたっていーんだよ?」

 血色豊かな、しかし薄い唇が円に歪められる。俺は額に手をあて、やれやれと首を振って見せた。

「説教台磨きなら学校時代に十分やった。もうごめんだね」

 わざとぶっきらぼうに言うと、ポーチエレンはいたずらっぽく、くすくす笑った。まったく、成人してもこのあたりは全く変わらない。

「で、何の用事? 私の顔を見に来るだけなら、日曜昼の説教で充分じゃない?」

 数秒、形容し難い気まずい空気が流れる。 俺はおずおずと絞り出した。
「姉の、……エミリアのことで、相談に」
 彼女は表情をこわばらせ、短く相槌を打った。

「血の匂いがするよ。まだ、やってるの」

 黒衣に包まれた豊かな胸がたゆたう。その表情には依然として影がさしていた。

 神学校を出てからもポーチエレンと連絡を取っているのには、理由がある。エミリアの事情を知った彼女は、俺達の「仕事」の手伝いをしてくれるようになったのだ。
 顔を潰した死体を、身元不明の死人として処理し、行き倒れ人のための墓に収めてくれる。死体が出なければ、軍警も俺たちを追うことが出来ない。ポーチエレンは俺たち殺し屋姉弟の共犯者だった。
 俺とポーチエレンは椅子に腰掛けた。ポーチエレンは腰周りの布を整え、俺に向き直った。俺は、ポーチエレンの細い肩を軽く抱き寄せる。

「ごめん」
「謝るくらいならやめてよ。お姉さんもジョージも、神様に背いた行為を重ねて、愚かしいと思わないの」
「本当のところは?」
「……お見通しなんだね……。そう、ただの私情よ。神様なんて関係ない、二人がこうして人殺しをしてること、私が悲しい」

 不自然に引きつった声で、ポーチエレンが応えた。彼女身体を寄せて、俺の服にすがり付いてくる。ポーチエレンの柔らかな髪から、ふわりと匂いが広がった。きつく焚き付けられた香の中から、体に染み付いた懐かしい匂い、『ある匂い』を感じ取った。
 それを感じた俺は俺の喉の奥に、どす黒い思いが広がってきた。ならば、殺してやるしかない。ポーチエレンを恫喝する。

「俺は一体どうすればいいんだ」
「償いの方法が一つだけあるよ」

 ポーチエレンがはね起きた。

「叛逆者を殺すの」

 彼女の言葉に、身がこわばった。寂寞がじわじわと心を蝕んでいく。

「あなたのお姉さんは神に逆らいすぎた。世界の終末では、悪魔は神に敗れ、神に逆らった人間はみな死ぬの。お姉さんにとっての終末が、今だということよ」
「俺が、姉さんを殺すのか」

 視線で彼女の目を抉った。ポーチエレンは快活に笑う。一言で形容するなら聖画の天使。一点の曇りもない、華やかな笑みだ。
 天使が語りかける。

「ジョージも、お姉さんと共に罪を重ねてきた。それはもう消せない。だから、お姉さんを葬ったらここに来て欲しいの」

 乾いた笑いを漏らすと、ポーチエレンは目に涙を浮かべた。

「ごめんなさい。けれど私は、もうあなたを庇いきれない。お姉さんやあなたがお金と引換に殺した人を、身元不明って誤魔化して葬るでしょ。神父様は私を疑ってる。嘘はもう限界なの……私の心も」
 涙が零れる。俺は頷いた。
 そう、純情で素直なのは彼女だった。今までさんざん世話になったのだから、俺は、彼女の無垢な心を癒してやらねばと心に決めた。もし邪魔が入れば、そいつを殺してやる。俺達の幸せな未来は、誰にも壊させない。

「俺は俺の敵を殺す」

  俺は秘めた決意を伴い、ポーチエレンを見据えて吐き捨てた。くりくりとした瞳が、ぱちくり丸くなる。彼女はしかし、笑った。

「成功したら――この教会で会おうね」

 その笑みに導かれるまま、俺はエミリアを墓地へ呼び出した。

 

 閑静な農村の田舎道、未舗装の道沿いに延々と小麦畑が続いていた。隣を歩く姉はどこか浮き立っているように見える。赤毛を人差し指に絡ませ、躊躇いがちにエミリアを見つめる。朗らかに笑う姉のマントは、夕日を受けて柔らかく光った。

 「長らく連絡がないから心配したよ。ジョージ」

 つとめて明るく放られた言葉。俺は気まずくなって、僅かに目を逸らした。
 あの日ポーチエレンと話してからというもの、俺はエミリアと連絡を取らずにいた。
 ――叛逆者を殺すの。
 姉のことを想う度、ポーチエレンの声が脳内で響き渡る。エミリアはポーチエレンにとって消えて欲しい人間、しかし俺にとってはかけがえのない姉。唇を噛み締めた。
 黙りこくる俺に違和感を覚えたのか、エミリアが怪訝そうに名を呼んできた。身を竦め黙礼すると、彼女は今度は茶化すように苦笑し、訥々と語り始めた。

「ねえ、昔のこと覚えてる?神父様に引き取られるより前、ママと下町で暮らしてた時。いっつもお腹空いてたよねえ」

 忸怩たる思いが心奥に蘇ってきた。エミリアと目を合わせないように頷く。
 母親は街娼だった。しかし、彼女はジョージと同じ『赤毛持ち』だったのだ。ブロンドや黒髪、茶髪などとは違い、格段に安い値段で買われる立場で、一日に稼げるのははした金だった。
 三人は商店街の店間を棲家にしていた。雨がやっと凌げるくらいの急作りの屋根、擦り切れた毛布に身を寄せあって寒さに耐える。日が沈み、母親が街に繰り出す度、宵闇に怯えるジョージは泣き喚いた。エミリアの慰めは、今でも鼓膜に張り付いている。何しろ、物心付いてから窃盗未遂で捕まるまで、姉に張り付いて生きてきたのだから。
 廃液の匂いが立ち込める下町、常にすべてに飢えていた。下町での記憶は脳裏に焼き付けられ、時折その苦さを舐めていた。

「ジョージ、今日はどこへ連れて行ってくれるの?」

 話を断ち切り、エミリアは伸びをした。
 結局のところ俺はポーチエレンに従った。共同墓地に埋葬された母親の墓参り、と称しエミリアを呼び出す。そこで姉を殺し、用意された棺桶に遺体を詰めて埋める。墓標はポーチエレンが用意してくれるので疑われることはない。
マントを着込んだ細い背中。幼い頃からずっと、彼女には世話になってきた。散々利用しておきながら裏切る自分に嫌悪もある。しかし、ポーチエレンの言う通り――限界が、来ているのだ。
 姉の手を取って山道へと導き、崩れゆく黄昏に目を細めた。獣道沿いに荒野を歩いていくと、十字架がいくつも立ち並ぶ丘へとたどり着いた。夕暮れの中、墓地はすっかり静まり返っている。落ち着きなくそわそわと歩き回る姉を手招きし、無防備に歩いてきた彼女を――棺桶へ招き入れた。

 間抜けな悲鳴と共に、エミリアは百合の花弁の上に尻餅をついた。はずみでマントが脱げ落ち、地味な白のデザインのワンピースが広がった。清楚な白が咲き誇る。
――百合の花言葉は、純真と無垢だっけか。俺にはつくづく縁がない。
 姉はまだ余裕ぶっているのか俺に囁く。

「十三の使徒の真似事のつもり?」
『ユダは十二番目の使徒だ』

 神学校の出のくせに、そんなことも知らないの。そう付け加える。そして俺は、そのメモ用紙を破り捨てた。

「ごめんね。俺はエミリアに謝らなくちゃならない――本当は出るんだよね、声」

 皮肉に、片頬を歪めた。

エミリアが裾から伸びた脚をゆらゆらと動かせば、影もそれに合わせて蠢いた。剥き出しになったエミリアの足の甲に、軽くキスをする。

「花瓶であの女を殴った後、正直後悔したんだ。うちの学校は厳しいから、あんな事件を起こしたら神職どころか退学、路地裏に放り出される。いっそのこと死んでしまおうと思ったけれど、エミリアは中途半端にガラスを滑らせただけで、殺しきってくれなかったね」

 まるで賛美歌を口ずさむように、台詞を紡ぐ。ポーチエレン以外にはろくに聞かせなかった素のトーン。

「これだけなら一生恨んでも恨みきれないが、俺の罪を被って二年他の神学校へ移ってくれたばかりか、自分から問題を起こして退学までしてくれた。おかげで俺はその後からかわれることはなかったし、経歴は綺麗なままだ」

 俺は飄々と手を広げた。

「暗殺で身を立てると聞いた時はびびったよ。俺があいつらを殴ったことは、エミリアしか知らない。どこかにそれを漏らされちゃ困るから今まで一緒にいたけど、来月からは神父として隣町の教会に住まうことになった。秘密を知ってるあんたが生きてると目ざわりだ。さようならエミリア。愛してるよ」
「……!」

 エミリアが目を見張った。まさか、協力者だったポーチエレンが姉殺しを依頼したとは思うまい。しかしエミリアは、棺桶の中の百合に体を預け、抵抗することはなかった。

「ジョージの声が戻ってきてて、良かった」

 姉ののんきな声に、今度は俺が冷や汗を垂らす。思わず目に力が入った。棺桶の蓋を掴み怒鳴る。

「余裕ぶりやがってッ!密閉された空間で、百合の中に閉じ込められたら死ぬんだぞ……」
「あんなの嘘。神学校の出のくせに、そんなことも知らないの。――百合は、聖母マリア様のお花でしょ?やさしい花だよ」

エミリアのさみしそうな笑いは、つぼみが柔らかに開く瞬間のようだった。

「最後に一つだけお願いをさせて。棺桶の蓋を閉めたら、深い深い穴を掘って埋めてね。ジョージが死ぬ時、きっと私に謝るでしょう?その声を聞きたくないから。私が居れば、ジョージはいつまでも寮生時代のことを思い出しちゃうもんね。――今まで本当にありがとう。さようなら」

 無垢の中で死なせてくれて、本当に幸せ。エミリアは微笑した。微笑みが濃くなり、蕾が開きゆく。

「私の一番大切なもの、それはジョージなんだよ」

その言葉が凶器だった。
 赤紫に濁った血液が心臓を蝕み、四肢がバラされ、溶けて、崩れて、いなくなる。嫉妬と悔しさと憎しみが胸の中でミックスされていった。彼女のように愛し愛されたいという欲求なのだろうか、自分自身に納得がいかないのか、どうにも指が動かない。

「しあわせだな……あんたの脳は……ッ」

 意外なほど素直に死を受け入れる態度。その姿勢から、どれだけエミリアに愛されていたのかを痛感した。俺は、宝石の手枷なのだろう。
いっそ俺が生まれなかったら、あるいは彼女と出会わなかったら、そんな気持ちが扉を蹴破って俺の心に滲む。しかし、この姉のいない世界で生きる俺は今よりずっとつまらなくて、鼻持ちならない人間になるだけだ。彼女を手放したくないと考えるかぎり、俺はこの感情も手放せない。俺は――投げ出した。自分の中で蠢いているのが何なのか分からない。
 ふと、ポーチエレンと会った時の様子を思い出す。続く言葉は、どうしても口にできなかった。間を誤魔化すようにして、手にした百合の花を棺桶に投げ入れた。花は姉の身体のそばにはらりと落ちた。俺は姉の瞳を抉って告げる。

「ここで偉そうなこと言ったって人殺しなのは変わらない。エミリアはマリア様にはなれない」

 エミリアは山あいに沈む太陽を見上げ、目を細めた。サン=サーンスのミサ曲を口ずさんでいる。

「ジョージも、イスカリオテのユダにはなれないね」

 エミリアが言い終わらないうちに踵を返し、墓地から走り去る。荒い呼吸音が耳元で唸った。
 結局中途半端なままじゃないか。イエスさまを裏切ることも、嫌うこともできず、かといって姉のように真剣に神を信じるなど出来るはずもなくて。実際、半分本気で、半分は迷っていた。その揺れの部分に、姉が触れてきた。姉の言葉で、その二つを明確に区切っていた壁が決壊した。泣く資格なんか無いくせに、涙が頬を伝うのを感じた。袖で乱雑に拭う。
 俺は空を見上げる。グラデーションの夕焼けだった。黄昏時の、微かな明かりが鬱陶しい。早く真っ暗になってくれ。なにもかも全部黒く染め上げろよ、早く。

 視界に割りいる前髪は、赤。――明るくも暗くもなりきれないこの色が、やっぱり、だいきらいだ。

 

 遠くには、ぼんやりと街あかり。

 木造りの扉を開き、中に佇む背中に目をやる。影が振り向いた――いつもと変わらない華美な金髪。机上の皿には、ローストビーフの欠片とナイフ一式が取り残されていた。食事中だったらしい。
 煮えくり返るはらわたを抑え、冷静に語りかける。

「ポーチエレン。戸締り無しなんて、いくら田舎でも不用心だろう」
「ジョージこそ、教会に来いって言ったじゃない。どうして私の住処に」

 朴訥とした口調で呟けば、ポーチエレンが頬を膨らます。可愛らしい仕草も今は酷薄に映った。

「教会には火が点ってないから、歓迎されてないと思ってな。お前こそ、家でディナーと洒落込んでるのは何故だ?」
「死体の始末は力仕事だもの、体力補充に食事してただけ。ジョージって迷いやすい性格だから、お姉さんを殺すまで時間がかかると思って」

 こともなげに首を傾げ、ポーチエレンの白い首筋に髪が零れ落ちた。顔馴染みが姉を手にかける間に、のうのうと肉を食う。いい加減偽善者っぷりに呆れて、重い口を開く。

「もう、友だちごっこは終わりにしよう」

 ポーチエレンは、澄み切った瞳でじっと俺を見据えていた。数秒の間を置いて、唇がかろうじて蠢く。

「どうしてそんなこと言うの?」
「――最近いやに濃い香水付けてたのは、不吉な体臭を隠そうとしてだろ?」

ポーチエレンのペースに呑まれまいと、ちぐはぐな質問で切り返す。思惑通り彼女は目を剥いた。

「お前は墓地の管理権を利用して、エミリア以外の犯罪者からも死体処理を請け負っていた。恐らく、日曜昼に教会で開かれる集会を利用して顔合わせしてたんだろ?誰が出入りしても怪しまれないからな。けどその内、血の匂いが染み付いて、神父に勘づかれた。誤魔化そうと香を焚いてたみたいだが、筋金入りの殺人鬼にかかれば嗅ぎ分け朝飯前だ」

 鼻をつつき歪に笑うと、ポーチエレンは後ずさった。図星なのだろう。

「殺人を利用する背徳シスターめ」
「だからなんだって言うの!」

 言われ放題で堪忍袋の緒が切れたのか、ポーチエレンが立ち上がった。

「ジョージだって死体処理の世話になってたでしょ!?恵まれない人のために、私なりに尽くしてたんだよ!?」
「違うね」

 必死の反論を無視し、かぶりを振る。

「死体処理請負で稼いでたことが露見したお前は、職権濫用と背信で破門になりかけてた。そこへ、姉を殺そうか迷ってる俺が相談に来た。そこでお前、エミリアを葬るように唆し、彼女に罪を着せることにしたんだ。恵まれない人のためなんて大嘘、利用するだけ。違うか?」

 かつて天使だった彼女は、俯いて黙りこくっていた。
 沈黙が痛く沁みた。悔しくも悲しくもなく、心の奥が強く踏み躙られるような苦い気持ちに支配されていた。少なくとも俺は、ポーチエレンだけは味方だと信じていたのに。
やがてポーチエレンは、ロザリオを外し――床に叩きつけて踏みつけた。

「なっ!?」
「神よ、背信をお許しください」

 絶句する俺をよそに、彼女は悠々と歩を進める。

「ジョージの言ってること、半分正解で半分嘘だよ。私の本当の目的は、『ジョージとエミリアを殺すこと』。死体処理で金儲けなんてのは、おまけ」
「何を……何を言ってるんだ、ポーチエレン」

 声を張り上げることしかできない。最初からターゲットだったとは気づかなかった。
 当のポーチエレンは、悲壮に打たれた顔で俺を見上げていた。

「ジョージ、私にもね、お姉ちゃんがいたの。名は、エディリーティアだったわ」

 エディリーティア。聞き覚えのある名だった。
 そしてこの金髪、微笑み、面影から記憶を辿れば――二年前に顔を破壊した、あの女生徒へと行き着いた。俺の赤毛を理由にエミリアを苛めた少女。

「姉は顔を破壊され、人生が破滅した。縁談も仕事も全てパア! ジョージみたいな貧乏人には、転落の辛さは分からないだろうけどね」
「余計な軽口は慎め」
「で、そんな時丁度、犯人のエミリアは転院処分だと聞いたから、復讐のために私も神学校に入ったの。大変素敵な思いをさせて貰ったわ。転院処分の間のこと、エミリアは話したがらなかったでしょう?」

 ポーチエレンはケタケタと笑った。
 確かにエミリアは、離れていた間のことには触れなかった。相当酷い仕打ちを受けていたのだろう。

「そして向こうの神学校にいる間、エミリアには弟がいるって知った。私が姉のために尽くしたんだから、弟くんもエミリアの愚行の責任をとるべきだよね。そんな訳で、今度はあなたへの復讐のために、わざと転院処分になったの」
「俺を騙したのか!?」
「騙すだなんて! 私はただ、ちょっと媚を売っただけだよ? ジョージったら赤毛の外されっ子だったから、取り入るのなんて簡単だったけど!」

 態度を裏返した彼女には、憐れみのひとつも湧かない。全身の血は怒りに染まり、拳は小刻みに震えていた。この数年間ずっと、俺とエミリアを利用していたというのか。

「帰ってきたエミリアは、私とジョージが仲良くしてることが気に入らなかったみたい。けど赤毛と仲良くする物好きなんて他にいないから、たった一人の友達を排除して孤立させる訳にもいかなくて苦しんでたねぇ」

 髪を指に絡ませ、ポーチエレンが呟いた。言われて思い出す――姉と再会した時、ぎこちない表情だったこと。その時俺は『ポーチエレンと一緒』だった。
あとはもう言わずとも分かる。ポーチエレンの標的は自分だけだと考えたエミリア。俺へ危害が加わらないようにと、破門になるような行為に手を染め、神学校から去った。
しかし今となっては、エミリアの努力は全て水泡に帰したと分かる。全てはこの女の策略の元だった。歯ぎしりを重ねた。
ポーチエレンは瞳を狂気に染め上げ、下卑た声で高笑いする。

「滑稽だよねぇ!きゃははははは!!!!」

 醜く歪む表情を目にして、憎悪がさらさらと溶け、青色の感情に変わる。人生を無意識に縛り続ける中に、よく見知った誰かの影を見た。眼前で狂喜するこいつも、昔は一途に姉を慕っていたはずだ。でなければ、いくら姉妹といえどここまで手の込んだ復讐はしない。
 エディリーティアの顔を破壊したことは許されない。しかし、赤毛の弟を理由にエミリアを虐げようとした彼女も、また許されないだろう。目を細めながら、自らの思索をつつき回す。
 復讐に取り憑かれたポーチエレン、赤毛で俺をからかったエディリーティア、俺やエミリアも、結局神から見れば皆同じ。たりない落とし子で咎人なのだ。
 人を裁けるのは、所詮人間のみ。ならば俺はこの女を裁いてやらねばなるまい――元神職としてではなく、元友人として。懐のナイフに指を添えた。
 自責と迷いなら霧散した。吐き出される浅い吐息に噛み付いて、鼻と鼻を突きつける。

「神を冒涜しているのはお前だ!」

 ポーチエレンの胸を目掛け、深くナイフを突き立てた。謀略に溺れる背徳のシスターも、百戦錬磨の殺人鬼には敵うまい。布を裂く触感ののち、刃の向かいの肉が脱力する。

「か……ッ」

 ポーチエレンは一度びくりと痙攣して、そののち床に倒れ込む。意思を失った肉は床に叩きつけられた。あたり一面に飛び散った血液を集めすくって、整った顔にぶちまけた。

「ほら、飲めよ。好きなんだろ?穢れた血だ」
「ぅ゛ふぅっ……!」

 俺は引き笑いをした。

「少しはいい顔になってきたじゃねぇか。見事な死に化粧だ」

 胸元を傷つけられながらも、彼女の心臓はまだ蠢いている。

「残念だがお前の復讐は失敗だ。エミリアは生きてる!」

 俺はテーブルの足を蹴り倒した。しつらえたディナーは一気に倒れ、ワインボトルは横倒しになった。俺のマントにワインが零れ落ち、毒々しい朱に染まる。肉やサラダはポーチエレンの顔や胸にぶちゃぶちゃと掛かった。
 空に落下していくナイフを右手でひったくり、汁まみれになったポーチエレンの頬に突きつける。

「餞別だ。あばよ」

 ナイフの先端を肉に刺し、さくりとめり込ませる。あとは肉の筋や骨に沿ってナイフの刃を滑らせ、血やソースが流れ出ないように、綺麗に刃を引いていく。白い皮を取り除くと、生き造りは激しく震えた。全身の穴という穴から液体を垂れ流し、浅薄呼吸を繰り返す。

「んう゛ぅ゛う゛ぅ゛ぃ゛ぃ゛い゛ぎぃあああえおあああえあ!!!!」

 ポーチエレンの体はバウンドし、それきり動かなくなった。失神したのか、あるいは死んでしまったのか。
 広げた掌からナイフが滑り落ちる。呼吸ひとつすら聞こえない静寂が訪れた。俺はポーチエレンの身体から離れ、何事もなかったようにローストビーフの切れ端を摘んだ。芳醇な香りに劣らない、深い旨味が口内に広がる。
 その時、後ろに何かの気配を感じた。血走った目で振り返る。
 夜の闇の中でもよく分かる。開かれたドアの向こうに立っていた茶髪、それは――

「ジョージ……あなた……いったい」
「……エミリア

 しくじった。今彼女を見ての、感想の全てだ。
 エミリアが膝から崩れ落ち、震える手を頬に添えた。綺麗な色の瞳が、涙で揺らいでいる。

 エミリアは呆然として俺を見上げる。

「どうして、ポーチエレンがこんなことに、ジョージ」
エミリア。ポーチエレンに虐げられてたこと、俺に隠してただろ」

 姉は肩を震わせ、目に見えて狼狽えた。

「大丈夫だよエミリア。猫も人間もみんな同じ肉塊だ。神は然るべき審判を下す」

蹲るエミリアを見下ろし、平坦な口調で続けた。細い肩をびくびくと震わせる様は、浅く浮いた絶望に両手を括りつけられ、暗い空海を漂っているようだった。
在りし日、エミリアが切り裂いた猫と、冷たく横たわるポーチエレンを脳内で重ね合わせた。浅く刺さったままのナイフをもう一度押し込む。

「ジョージ、いったいどうしちゃったの。ポーチエレンは、あなたのお友達だったでしょう、なんで、どうしてこんなことッ」
「神徒でありながら背徳した、だから裁いた。けどな、エミリアは殺してなんかやらない。今まで自分が殺してきたヤツらについて、聖人ぶった幼稚な頭で自責しろ!それで……それで……」
「ジョージ。あなたはこの先どうやって生きていくつもりなの」

 その言葉に、暫し沈黙した。

 これまでは、エミリアとともに人を殺めては報酬を得てきた。しかし、エミリアと決別すれば仕事の斡旋口が消え、俺は浮浪するのみ。
 例えるなら針鼠である。人間に憧れるがゆえにせめてでも近づこうとするが、同時に自らの醜悪さをまざまざと思い知り、恐怖を抱えるのみ。針の刺さらない距離をもう二十年近く探し続けている。意味がない。意味がない。希死念慮さえ意味がない。そのために必死に生にしがみつくが、可能性を手放した日々は、全てがセピア色だ。

エミリア。俺は――鮮血の使徒だ」

 生まれてからこの日まで、散々に後ろ指を刺されてきた。ならばもう悪魔でも構わない。ただ、生きるなら、何としてでも真っ直ぐに。

「俺はこれからポーチエレンみたいな、神の世の理を歪める異端者に血の裁きを下す。そして――神様の愛する美しい世界を実現させる」
「違う!そんな世界、美しくなんかない!血に塗れて汚れてるだけ!」

 エミリアは涙を零しながら絶叫した。

エミリア。何が美しいかを決める法など存在しない。すべては、俺達自身の判断基準に委ねられているんだ。そしてその基準において差異が存在する限り、他人と美を共有するなんてのは無理な話だ。エミリアにとって血は汚らわしいかもしれない――でも言うよ。その赤は、最高に美しいね」

 俺は挑戦的に言い放った。
 皮膚を貫き、流れ出るそれは、生命そのものだ。人間の肉欲の合間を這い、もがき喘いで進む凶器の色。忌避されながらも堂々と胸を張る赤。ずっと嫌いだった『あか』が、今までにないほど、鮮やかに思えた。

「閉じた世界の中でぐるぐると歩き回るだけよ……」
「円環でも構わない。前を向いて歩くのが美しいんだ」
「歩いた先は地獄かもしれないわよ」
「それならそれで、焼きが回ったってことさ。何もしないよりはずっとましだ」

 俺はわざとらしく肩をすくめた。凛とした薔薇色に照る髪を、誇らしげに指さした。
エミリアはただ吼えた。噴き出す赤を、俺はぬらぬらした目で見つめ続けていた。

「ここで死んだっていいよ」

 姉弟のどちらが口にした言葉なのかは、もう分からない。

 肥大した自己嫌悪と汚らしく張り付いた自己愛が混ざり合い自意識は膨張を続ける。ごみだ。いや、本物の生ごみなら堆肥にできるだけ救いはある。中途半端に人間であるからして、人間に受け入れられないことへの煩雑な怒りや悲しみ、後悔、恥辱を経ての諦観にたどり着く。

 それでも。それでもだというのだ。鮮明な意志がここにある。血は体内を巡る。自らの信じる美を、望み続けている。だからジョージはいま、生まれて初めて満たされていた。

「さようなら、エミリア
「軍警を呼ぶわ」

 エミリアが声を張った。

「十分後には、ここは凄惨な殺人事件の現場として厳戒が敷かれるでしょうね」
「――はいはい」

 これが最後の慈悲か。俺はナイフを床に捨てた。指紋やポーチエレンの死因から、エミリアが犯人扱いされることはありえないだろう。もう二度と、庇わせたりしない。寛容を望んだ彼女に背を向け、踵を返した。

 ポーチエレンに操られ散々な人生だった。しかし、これからの俺は俺の人生を生きる。

 月光がさざめく夜の町。遠くにはうっすら、街あかりが見えていた。爪先から伸びる影が、暗がりに溶けていく。

「血に塗れてもいい! 主よ、たったひとつ、新しい人生を!」

 叫びを空に溶かし、ジョージは宵闇に紛れるように早足で走り出した。それがジョージの最初で最後の純真な祈りであった。

 

 

(鮮血のクオリア 完)